このご意見提出者とは次のようなやりとりをしています。

1回目ご意見提出:129日、委員会回答:321

2回目ご意見提出:49日、委員会回答:64

3回目ご意見提出:624日、委員会回答:87

4回目ご意見提出:810

ここには第3回目のご意見とそれに対する委員会の見解および第4回目のご意見を示します。

1回目のご意見とそれに対する委員会の見解
2回目のご意見とそれに対する委員会の見解

も参照してください。

 

頂いたご意見

T.「5−3」の削除を求めます。

(ご意見の補足)

1.本項目に関しいただいた見解からは、法律が社会においてどのような意味を有するかについて、必ずしも十分な学術的背景をお持ちにならない方が関与、起草されていると、考えざるを得ません。

(1)法律は最低限を規定し、倫理規定は高いモラルを規定するとのご説明ですが、法律違反をすること(あるいは少なくともその可能性を教唆すること)が高いモラルであるというのでは、法治主義の否定になります。

(2)「善い行いをしなかったからといって罰するのは不当です。」とのご説明もおかしいですね。法律の解釈は司法が行うわけですが、不作為と処罰に関する近時の判例傾向をよく御検討くだされば、このようなご説明にはなりません。当然この当たりは法解釈、立方政策の問題にも関係しますが、この見解をお作りに成られた方々の個人的な見解ではすまない問題を含んでいます。そもそも、「善い」モラルがあれば何をしても良いとのご説明では、5−3を削除すべきことに対する反論になっていません。モラル的に「善い」とは何か、特定の価値を強要していませんか。「一段上のモラル」とは何でしょうか。意味不明です。

(3)ご説明には、「法律は当然守らねばなりません。そして法律が完璧なものであるなら、公務員法に違反することを要求していることにはならないと思います。万一法律に欠陥があり、それを守ることが公衆の安全を損なうことになるなら、これは本当に厳しい状況ですが、法律に反しても適切な行動をとるべきだと思います。」とあります。思想の自由はありますので、何をお考えになっても良いのですが、学会として、本当にそのような統一見解になさるのですか。自分が(善いモラルに基づいて)適切と思えば法律違反をせよということですね。それこそ、かつての大学紛争の際に多用された論理です。それはモラル(モラルにもいろいろなモラルがありますね。)の相違の問題ではなく、社会の中でどのように生きていくかについての哲学的な部分にかかる問題であり、私と制定委員会(ないしこの部分の解説をお書きになられた方)との間には、明確に価値観の相違があります。ご説明では「具体的事例を念頭に置かなければ議論が不毛になる」とされていますが、本質的な問題を先送りして事実上議論を収束させてしまおうという意志が見られます。 個別事例の議論ではなく、哲学が問われています。学会は本質論を議論する場だと思っています。

(4)「自分には「善い」ことがわかっている→自分は「善い」ことを体現しようとしている→実定法(あるいは組織・社会)にはまちがっているところがある→違法でも「善い」ことをすることは良いことだ→良いことをする。」というような考え方であれば、そのような行為は、オウムのおぞましい事例をあげるまでもなく、現実社会から遊離するでしょう。

(5)5−3は改正された原子炉等規制法第66条の2を踏まえたものとのご見解のようですが、ご承知のように両者には以下のような差異があります。

   (5−3の表現)←→(法第66条の2)

   「公開する。」←→「主務大臣に申告することができる。」

   「守秘義務違反を問うてはならない。」←→「不利益な取り扱いをしてはならない。」

   すなわち、

  1)「公開」と「主務大臣への申告」とはまったく次元がことなるものであること

  2)「する。」と「することができる。」とでは、行為主体者に対する強制の程度においてまったくことなるものであること

  3)「守秘義務違反」と「不利益な取り扱い」とは異なること

  以上のような、本質的な差異があるにもかかわらず、それについての合理的説明がないままに、あえて法律とは異にする文言にこだわる理由が理解できません。ご説明ください。

  また、法的に守秘義務が求められる職種につかれている会員も多いと思いますので、5−3は法律からの逸脱を示唆していることにつき、法的関係をどのように整理されているのかご見解をお示しください。

 

頂いたご意見に対する委員会の見解

結論から申し上げますと、5−3は原案のままとさせていただきたく、よろしくご理解のほどお願い申し上げます。

法と倫理の関係につきましては、エンジニアであり法学部も卒業していらっしゃる技術士、杉本泰治氏が次のように書かれています。

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倫理は主としてモラルから発生し、法は、主として常識(=共通意識)から発生する。法と倫理は、法の足りないところを倫理が補い、倫理の足りないところを法が補う補完関係にある。なぜ、補完が必要なのだろうか。

法による強制は強力だが、それだけでは不十分というのは、第1に、制裁は人の自由を束縛し(懲役、禁固など)、人の財産に干渉する(罰金、損害賠償など)性格のものだから、人の権利を不当に侵害することがないよう、適用の条件が厳格に規定される。その結果、社会から非難されるようなことでも、法的追求を免れ、法の網から漏れるという空白部分が生じる。

第2に、強力な法律を作って義務として強制しようとすればするほど、人々は、責任を他人に転嫁して逃れようとする。法を積極的に順守するよりも、法による制裁を逃れさえすればよいという消極的な対応になりがちである。そこにも法の空白部分が生じる。

第3に、事故が起きてから法律によって責任を問い制裁するのは、後追いの手法である。いかに多額の損害賠償を得ても、失われた生命は戻らず、失われた健康はしばしば回復不能である。人の生命や健康にかかわることは、起きないように抑止する歯止めとなる行動が必要だが、それには法による強制はほとんど無力である。

倫理の場合も、倫理規程を制定し、違反すれば制裁する、という強制の手法は、法律の場合と同じ結果になる。倫理は、人が、他から強制されることなく、みずから目標を定め、自律的に遂行するものである。

(杉本泰治・高城重厚著、技術者の倫理入門、丸善、2001.4

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委員会では法と倫理の関係を上述の杉本氏の意見と同じように捉えております。したがって倫理規程の文言が法と異なるのは当然だと考えます。

委員会は法律違反を教唆する意図はまったくありません。このことは前文に「法令・規則を遵守し」と明記しているところから、是非ともご了解いただきたいと存じます。また、5−3が法律からの逸脱を示唆しているとのご指摘ですが、そのようなご心配はご無用です。5−4において「公開することが好ましくないものについては公開する必要はない。」と明記していますので、5−3の適用にあたっては5−4に抵触しないかを考える必要があります。法律違反になるような行為は当然5−4に抵触するものと委員会では考えております。

なお、「万一法律に欠陥があり、それを守ることが公衆の安全を損なうことになるなら、これは本当に厳しい状況ですが、法律に反しても適切な行動をとるべきだと思います。」という解釈につきましては、ご指摘のように学会員全員の賛同を得ることは難しいことを理解いたします。この解釈自体は倫理規程案に含まれているものではございませんので、当面の規程制定にあたっては除外してくださいますようお願い申し上げます。ただ、この意見は委員会の多数意見であることは申し添えます。また、今後のフォローアップ委員会ではこのような解釈につきましても、会員の意見分布がどのようになるかを調べていきたいと願っております。

 

委員会の見解に対し頂いたコメント

「行動の手引き」5−3に関する倫理規定制定委員会の見解については、以下の観点から納得することはできず、改めて「5−3」の削除を求める。
(1)原子炉等規制法第66条の2との関係につき、何ら合理的な説明がなされていない。
(2)法と倫理との関係についての杉本氏の見解が援用されているが、その見解は法哲学の分野の多数説とは認められない。一方的に自己の主張に好都合な論理のみを示して「どうだ。恐れ入ったか!」と言う手法は笑止であり、原子力のこれまでの社会との関係から得られる教訓から何も学んでいないと言わざるを得ない。学会のメンバーとして恥ずかしい。
(3)いくら倫理規定制定委員会が「法律からの逸脱を示唆しているとのご指摘ですが、そのようなご心配は無用です。」と言っても、文言自体がそうなっていることには、変わりがない。なお、「5−4」の存在を「無用」の理由としているが、守秘義務を破ることを定める「5−3」に対して、「5−4」では単に「必要はない。」と言っているのみであり、守秘義務破りは否定していない。従って、心配ご無用という理由にはなっていない。全く「軽い」議論である。
(4)これまで、倫理規定制定委員会は「万一法律に欠陥があり、それを守ることが公衆の安全を・・・法律に反しても適切な行動をとるべきだと思います。」との理由で、5−3削除についての私の意見を拒否してきたが、「この解釈自体は倫理規定案には含まれているものではございませんので、当面の規定制定にあたっては除外してくださいますようお願い申し上げます。」とは、どのようなことか。私の意見を拒否する理屈を撤回するのであれば、私の意見を採用していただきたい。同一パラグラフで「ただ、この意見は委員会の多数意見であることを申し添えます。」とは、「当面はごまかしておいて、後からやはりそうだ。」という、逃げではないのか。このようなごまかしには不信感を持つ。もう少しご発言にロジック性、継続性を持って欲しい。

 

頂いたご意見

U.作成されつつある文書については、学会として決定するのではなく、常に「案」として会員・非会員すべての議論にオープンにしておくことを求めます。

(ご意見の補足)

 今回のご回答で残念であったのは、作成されつつある文書の取り扱いに関し、『「行動

の手引き」の推敲を除いて既に制定委員会の手を離れておりまして、理事会や総会の議

論に移っております。どのようにして決めるかは我々として会員に強制できる立場にありません。』との御説明をいただいたことです。私は、決定することなく、このテーマについて常にオープンな形で議論を続ける姿こそ自由な学会として意味があることと確信しており、その観点からのコメントを1月以来提出しておりましたが、具体的なスケジュールすら公表せずに、もう自分たちの手をはなれている。あとは「民主的な手続きで決められるものと信じております。この民主的な手続きには多数決も含まれます。一人でも反対がるなら決定しないという方針は組織として取れないと思います。ご了承のほどお願い申し上げます。」という態度には以下の点からも憤りを越え、ため息が出ます。

(1)倫理規定とは、会員一人一人の良心に関わることであるから、可能な限り会員ひとりひとりの議論をつくす努力をしなければなりません。それには、単にインターネットや大会に参加した限られた者だけの議論だけではなく、会員全員(高々数千人に過ぎません。)に起草者としての問題意識を明らかにした上で、さまざまな角度からの議論を喚起する努力が不可欠です。起草者にはその姿勢が感じられません。

(2)なお、関係資料があるのであれば、ホームページ上で明らかにしてください。

(3)ご説明では、そのような努力に関する今後の努力について説明がないままに、あとはスケジュール闘争的に異論を切って捨てるとおっしゃっています。単なる手続き的な内容なら、ここまで異論を申し上げませんが、検討されている事柄は、個人の内面にまで関係するものですから、慎重に、かつ「ガスぬき」ではない実質的なデュー・プロセスを踏まれることを求めます。

(4)改めて、この議論を常にオープンなものとして、今決定せずに継続的に議論すべきものとして取り扱わないのでしょうか。御見解をおうかがいします。「案のままにしておくのは無責任」とのご説明ですが、不十分であると認識されている内容のまま、決定してしまうことこそ無責任です。学会が社会から求められていることは、常にこの種の議論をしている姿を社会に見せることではないのでしょうか。

(5)「なお、倫理規定(原文のまま)は「こうありたい」という会員の宣言です。守らない自由を規定でうたうつもりはございません。」との説明は、まったく論理的、説得的ではありません。一部にせよ、論理的帰結として「こうありたいと思わない」会員が存在することを包含しないような規定を、なぜ性急におし進めるのですか。「罰則が無い以上」守らない自由を「書くことは意味がないと考えます。」とのことですが、私の問題意識はそのような手続き的な次元の問題ではありません。学会と個人、社会との基本的な関係についての問いかけです。議論の本質に(意識的に)触れずに形式的、表面的なところで済ましてしまう態度は、自由な学問の場にふさわしくないと断言します。かつての大学紛争の際にもそのような手法がよく使われたことを想起します。日本原子力学会がそのような性格の場に変質しないことを切に望みます。

 

頂いたご意見に対する委員会の見解

委員会としては、倫理規程は今後とも会員・非会員すべての議論にオープンになっているものと考えております。そのことは行動の手引の前文に「個々の会員の倫理観は細部に至るまで完全に一致しているわけではなく,またある程度の多様性は許容されるものである。しかしその多様性の幅についても明示していくよう,今後努力する。また,規範は時代とともに変化することも念頭に置き,我々は本倫理規程を見直していくことを約束する。」と明記していることから読み取っていただきたいと存じます。具体的には現在の「倫理規定制定委員会」に引き続いてフォローアップ委員会が設置され、そこで検討が継続されます。引き続き議論に参加いただければ幸いです。

しかしながら、規程を定めることは大切だと考えております。適当なマイルストーンごとに形を明確化しないと、検討自体が非常にやりにくくなります。そのために成文化しようとしているのです。成文化したからこそご意見をいただけたものと考えております。

委員会としましては倫理に関する議論がさらに盛り上がるよう、できるだけの努力を払います。9月の秋の大会でも特別セッションを組む予定です。まだまだ会員に浸透していないとのお叱りは甘受いたしますが、これは委員会の努力だけでは如何ともしがたいところがあります。どうかご支援のほどお願い申し上げます。

これまで一部の学会員には、倫理の問題について議論すること自体をタブー視する傾向があったのではないかと思います。「倫理は他から強制されて身に付くものではない」「倫理規程の制定は多様な価値観の否定につながる」などがその主な根拠として挙げられます。しかしお互いの倫理観がどのようなものか、どこまでが一致しどこが一致しないのかを冷静に検討する作業は学会こそが先頭を切ってやらねばなりません。そのような問題意識から、この回答もできる限り本質論を中心に書いているつもりです。しかし能力不足のため誤解を与えましたことはお詫び申し上げます。同時に、学会は本質論を中心に議論する場ではありますが、しかし組織である以上、所定の手続きに従わざるをえないことも事実です。どうかご理解のほどをお願い申し上げます。

 なお、委員会資料は委員以外のかたで議論に参加されたかたのお名前等を除き、すべて事務局で回覧できるようになっております。この点はホームページでお知らせするようにいたします。

 

委員会の見解に対し頂いたコメント

いただいた見解では、以下の観点から「「行動の手引き」は常に案として会員・非会員のすべての議論にオープンにしておくべきである。」との意見を撤回する理由を見いだすことができない。再度同様の意見を申し述べる。なお、倫理規定制定委員会が本件に関する議論に責任を持てないのであれば、責任のある者からの回答を求める。
(1)現在の状況がすべての議論を招聘していると言う意味でオープンになっているとは、とても思えない。
(2)議論が尽くされていない内容や、特定の価値観を含む内容が多い「行動の手引き」を決定し、会員に強制(「しなければならない」を「する」にしたところで、本質は変わらない。))することに対する危惧は、他の会員からも表明されている通りである。
(3)「形を明確化しないと、検討自体が非常にやりにくくなります。」とは、今、決定しなければならない理由にはならない。「成文化」と「決定」とは意味が違う。「成文化」が大事ということであるなら、すでに「行動の手引き」は案として成文化している。必要なのは、価値観を強要しないこと、議論を普段に行うこと(を社会に示すこと)であり、これらは「決定」しないで、すなわち常に「案」のままにしておくことで初めて達成される。
(4)「お叱りは甘受」といいながら、受け流し(拒否し)て「ご支援を」と言う姿勢を、普通世の中では「慇懃無礼」という。