松枝直人
愛媛大学農学部
〒790-8566 松山市樽味3-5-7
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1.はじめに 2.原子と物質 3.量子化学入門 3.1 なぜ量子化学か 3.2 分子軌道の概念 3.3 計算手順 3.4 入出力例 4.量子化学の目で見た粘土 |
1.はじめに
私たちの周りに存在するすべての物質は、原子が集まってできています。粘土、さらには人間の体も例外ではありません。どんなに大きな、複雑な構造をもった物質でも、微視的に見ると、単なる原子の集合体に過ぎません。化学とは、様々な物質を対象として、その性質、構造、反応、有効利用法などを追求する学問ですが、その際「化学屋さん」たちは、目的物質を元素記号を用いた構造式で書き表して考える習慣があります。これは、物質が原子の集合体であることに加え、その集合のしかたによって物質の性質が左右されることをよく知っているからです。
たとえば図1に構造式で表したAとBの物質は共に C2H4O という分子式ですが、まったく別の化合物です。BとCは同じ形をしていますが、含まれる元素が異なります。ここで、A、B、Cはそれぞれどのような性質をもつのか、という疑問が沸いてくるでしょう。さらには、どうしてそのような性質を示すのか、という根源的な疑問を抱く人もいるかと思います。これらの疑問のうち、特に後者に対して明快で理論的な答えを示してくれるのが、化学の中の量子化学という分野なのです。すなわち量子化学は“原子の集合のしかた”と“性質”との間の理論的な橋渡しをするもので、現代化学では必須の分野となっています。
本粘土基礎講座氓ナこれまでに紹介されているように、粘土の化学構造すなわち“原子の集合のしかた”と“性質”については、ほとんどすべて解明されています。しかしながら、この両者の間の理論的な橋渡しはまだ不十分な点が多いのが現状です。そこで本稿では、一部の専門家以外にはなじみが薄い量子化学についてその概略を述べ、量子化学の目で見た粘土の世界についてご紹介します。その前に、まず次節で、物質を構成する原子とその集合のしかたについて復習しておく必要があります。
2.原子と物質
原子はおおまかに球形の外見をしており、その直径は10-10 m オーダーと非常に小さいものです。原子はさらに1個の原子核と複数の(水素原子は1個の)電子から構成されており、これらはそれぞれ正と負の電気を帯びています。たとえば原子番号6番の炭素原子の場合、原子核は+6の電荷をもち、電子(−1)を6個有しています。全体として原子は中性です。原子核は原子の中心に位置し、その大きさは、原子のさらに1万分の1と小さいのですが(電子はさらに小さい)、質量は原子のそれとほぼ同じです。これは、電子の質量は原子核の質量に比べると、ほとんど無視できることを意味しています。
容易に想像できるように、小さく軽い粒子ほど活発に運動します。したがって、原子において、重い原子核は中心に留まって動かず、その周りを小さく軽い電子が激しく動き回っている状況にあります。つまり、この電子たちの運動範囲こそが原子の大きさになるのです(図2a、b)。近年、物質中の原子の姿を直接とらえた電子顕微鏡写真をあちこちで見かけますが、あの丸い粒子は激しく運動している電子群(電子雲)であって、決して原子核が見えているわけではありません。
このような原子が集まって分子や物質が出来上がるわけですが、その集まりかたは、ビー玉が寄り集まるようなもの、すなわち、単なる物理的な集合ではありません。1つの原子と他の原子との間には、ある引力が働く場合があります。そして、この引力が働く原子どうしが互いに結合するのです。逆にいえば、物質中の隣り合う原子どうしの間には必ずこの引力が働いています。ここで、なぜ電気的に中性である原子どうしの間に引力が発生し結合するのか、という疑問が生じるでしょう(NaClなどのイオン結晶は別にして)。
最も簡単な分子である水素分子(H2)を例にとって説明します。まず、水素原子Aと水素原子Bが独立している場合を考えます(図3a)。原子A中の電子を電子Aのように呼ぶことにします。このとき、たとえば原子A中の電子Aは原子核Aの付近にのみ存在します。この状態から、2個の水素原子が徐々に近づいていくと、次第に互いの電子雲が重なり合うようになってきます。電子雲が重なるということは、たとえば、電子Aが原子核Bの付近にも存在できるようになる、ということです。原子Aと原子Bとの間で電子の授受がなされた、という表現も行われます。さらに2個の水素原子が近づき水素分子の安定原子間距離(0.074 nm)まで到達すると、電子Aと電子Bという区別はなくなり、2個の電子は自由に2つの原子核の周辺を行き来できるようになります(図3b)。
先ほどの疑問に対する答えを簡単にいうと、水素原子2個の系の場合、2個が独立して存在する図3a の状態よりも、電子が自由に行き来できる図3b の状態の方がエネルギー的に安定なのです。それゆえ、中性の水素原子どうしが互いに結合して水素分子を形成するのです。この結合の際に、原子核はあまり役割を果たしておらず、その主役は電子であることが分かると思います。すなわち、複数の原子核で形成される空間的な場を電子が行き来することが化学結合の源となり、原子の集合体である物質が形成されるのです。
3.量子化学入門
3.1 なぜ量子化学か
電子の役割は化学結合の形成のみにとどまりません。化学構造すなわち“原子の集合のしかた”が決まると、その中の電子の存在状態が決まり、その存在状態がその物質の“性質”を決定するのです。また、他の物質と化学反応をする場合にも物質間での電子の授受がその反応の種類や起こりやすさを決定します。この意味で、化学とは電子の学問、あるいは電子の振る舞いを追及する学問である、ともいえます。物質中の電子の振舞いかたが分かれば化学の問題はすべて解決でき、その振舞いかたは量子化学によってのみ理論的に導かれます。
物質中における電子の振る舞いかたは、しかしながら、われわれの日常的な感覚とはかけ離れています。たとえば、物質中の電子に許容されるエネルギー値は不連続で、各電子はとびとびのエネルギー値しか持つことができません。また、ある1個の電子は、ある瞬間に、原子核Aの近くにも、原子核Bの近くにも同時に存在確率を持つことがあります。このとき、原子核Aと原子核Bとの間に他の原子核Cが存在し、原子核C周辺での電子の存在確率が0であるということも起こり得ます。つまり、電子は原子核Cの近辺を通過することなく原子核A、B間を行き来できるのです。一例を図4に示しました。また、光と同じように電子は、ある場合には粒子としての、ある場合には波としての性質を示します。さらに、ある瞬間に電子が物質中のどの位置にあるかを観測することはできません。図2に示した電子雲の濃淡は電子のその場所での存在確率を示しているに過ぎません。
以上のような、電子の奇妙なふるまいかたは、古典力学の範囲から完全に逸脱しています。そこで、光や電子のような極微粒子の挙動を記述するために量子力学が確立されました。物質中の電子に対して量子力学の原理を「厳密」に適用すれば、その物質の化学的性質のすべてが非実験的に理論予測できると認識されており、現時点で、この認識を否定するような理論あるいは実験事実は提出されていません。
量子化学とは、分子や物質に対して量子力学の原理を「近似的」に適用することによって、それらが持つ化学的性質を「半」定量的に予測しようとする分野です。「近似的」であるのは、数学上の問題(多体問題)から、原子2個以上の物質に対しては量子力学の原理が厳密に適用できないからです。そのため計算結果は近似解となり「半」定量的ではありますが、化学的精度からは十分定量的な結果を得ることが可能な状況にあります。
量子化学における計算方法のうち、最も広く普及している方法は分子軌道法で、「量子化学=分子軌道法」といっても過言ではありません。分子軌道法は、これまで主に比較的低分子の有機化合物を対象とし、その反応性、合成、触媒作用などに対して輝かしい成果をあげてきました。有名な例がウッドワード・ホフマン則や、福井謙一博士のフロンティア電子理論でしょう。さらに、近年は分子軌道法自身の発達(近似法の進歩)に伴って、予測の定量性、信頼性が一段と高まり、実験的に知ることが困難な情報も、十分な精度で得ることができるようになってきました。
「計算機実験」という言葉があるように、分子軌道法計算やモンテカルロシミュレーション、分子動力学法などは、様々な実験手段と同じように、自然現象を解明するための貴重な観測手段となりつつあります。同時に、コンピュータの処理能力の目覚しい向上とソフトウェアの充実によって、分子軌道法の適用範囲と利用者の幅も広がり、たとえば、最近のJACS(J.Am.Chem.Soc.)では、半分以上の論文が何らかの形で分子軌道法を用いた議論を取り入れています。このことは、第一線の化学研究において、分子軌道法が不可欠な手法となってきていることを示すと共に、原子分子の世界が量子力学の原理に支配されていることを再認識させるものです。最近では生物学、生物化学の分野でも分子軌道法が活用されつつあり、今後の量子生物学の発展が期待されています。
なお、以下「軌道」という用語が随所に出てきますが、英語は「orbital」で、正しくは「軌道らしきもの」あるいは「軌道関数」と訳すべです。「軌道」というと、山手線の電車のように決まった線路の上だけを電子がぐるぐる動き回るというイメージになりますが、実際は以下に述べるように、分布関数として空間中における電子の存在確率を表したものです。
3.2 分子軌道の概念
第2節で述べたように原子は原子核とそのまわりの電子から成っています。たとえば酸素原子では+16の電荷をもつ原子核の周囲に16個の電子が存在しますが(図5a)、16個の電子は無秩序に自由に運動しているわけではありません。各電子は固有のエネルギー値をもっていて、その運動範囲も決まっています。これらはそれぞれエネルギー準位、軌道関数と呼ばれ、両者をまとめてたとえば「1s 軌道」のように表現します。1s 軌道は最も低い(安定な)エネルギーをもち球形の空間分布関数を有します。そして、1s 軌道、2s 軌道などを原子軌道と呼びます。
図5aの右側に示したものを電子配置といいますが、電子配置さえわかれば、原子のすべての化学的性質が予測できます。実際には原子の種類は百数個しかないので、原子の種類(元素)が特定されれば電子配置は決定します。このような原子軌道の概念を用いることによって、原子中の電子の理解は決定的な成功を収めましたし、また、原子中の電子のことを理解するのに、これ以外の考え方をする必要はありません。たとえば、原子のイオン化エネルギーや電子親和力、発光・吸収スペクトルなどの実測値は、原子軌道の概念を用いた量子力学的計算によって見事に再現されています。
これと同様の考え方を分子に対して適用したのが分子軌道法です。ここでは例としてエチレン分子を考えます(図5b)。エチレン分子も酸素原子と同じ16個の電子をもっており、酸素原子との違いは原子核が1個か6個かという点だけであることが分かると思います。ここで、エチレン分子から16個の電子をすべて取り去り6個の原子核だけを残します。そして、これらをあたかも+16の電荷を持つ、ひとつの原子核であるかのようにみなします。ただし、これは原子の場合のような“点”ではなく、実測値と同じ広がりを持った、原子核の集合体です。このようにしてできた“原子核”のまわりに、原子の場合と同様にいくつかの軌道が存在すると仮定し、それらのうち、エネルギー準位が低いものから順番に電子を2個ずつ詰め込んでいきます(原子と同様、Hundの規則によって1つの軌道に電子は2個までしか入りません)。エチレン分子の場合、電子の総数は16個なので、8番目の軌道まで電子で満たされ、9番目以降の軌道は空のままとなります(図5b 右)。
これでエチレン分子の再構築が完了しました。このとき存在を仮定した軌道が分子軌道であり、この分子軌道の形とエネルギー準位は分子軌道法計算の結果得られます。分子軌道の形は原子軌道の場合と同様に空間の分布関数で表され、各電子はある一つの原子核あるいはある一つの原子間結合のみに局在するのではなく、分子全体に非局在化し得ます。
以上のように、分子軌道法とは、原子の分野で成功を収めた「軌道」の概念を、分子の世界に持ち込んだものです。原子の性質が原子軌道の形とエネルギー準位で理解され得たように、分子の性質も分子軌道の形とエネルギー準位とですべて説明・予測することができる、という仮定のもとに考えられた方法です。そして、前述のように、分子軌道法は分子の理論的研究において不可欠な存在となってきています。
3.3 計算手順
ここでは、分子軌道法の計算手順をごく大まかに述べます。また、計算方法・近似法の違いによる様々な分子軌道法を紹介することにします。まず、分子に対してSchrdingerの波動方程式が成り立つことを受け入れます。なぜ成り立つのか、詳しく知りたい方は成書を参照して下さい。最も簡単な表現のSchrdinger方程式は以下のようです。
HΨ = EΨ (1)
この式を解けば、分子の化学的性質がすべてわかることになります。H はハミルトニアンと呼ばれる演算子で、ここではその内容を記述しませんが、その分子に固有の関数です。そして、電子の運動エネルギー、電子−原子核間引力ポテンシャル、電子−電子間反発ポテンシャルなどの項を含みます。Ψ は電子の全波動関数、E は全電子エネルギーです。H の中に原子核−原子核間反発ポテンシャルを加えた場合は、E は分子の全エネルギーとなります。H は目的分子の分子構造で決まるので(分子軌道法の種類で異なりますが)、求める未知数はΨとE、すなわち、分子軌道の形とエネルギー準位ということになります。
式(1)は多体問題なので厳密解は得られません。したがって近似法を採用することになります。まず、電子数が 個の場合、Ψ(1、2、・・・ )は電子 個の座標の全電子関数ですが、これを、1個の電子の座標のみに依存する関数ψ(一電子波動関数。これが分子軌道です)の積で表します。すなわち、Slater行列式を用いて、
Ψユ(1、2、・・・ )=( !)-1/2|ψ1・ψ2 ・・・ ψ | (2)
Ψユ は近似波動関数であることを示します。この近似の物理的イメージは、個々の電子は他の電子の位置には無関係に、他の電子がつくる平均場の中で互いに独立に運動しているというものです。独立粒子モデルあるいはHartree-Fock(HF)近似と呼ばれています。たいていの安定な分子に対しては、このモデルがよい近似であることがわかっています。一電子波動関数、すなわち分子軌道は、通常原子軌道の一次結合の形(Linear Combination of Atomic Orbital、LCAO)で表します。LCAO法と呼ばれます。これは、電子は分子の空間中のどこにも存在し得るが、最も存在確率が大きいのは原子核の近傍であり、そこではやはり原子軌道(1 、2 など)に収まるであろう、という考えからきています。つまり、 番目の分子軌道が 個の原子軌道で展開されるとすると、次のように書けます。
ψ =Σ χ (3)
=1
ここで、χ は1s、2p などの原子軌道関数です。これは必ずしも原子軌道関数でなくてもよいので、基底関数と呼ぶのが普通です。 は分子軌道係数と呼ばれ、 番目の分子軌道での各χ の重ねあわせの比率(存在確率のようなもの)を表す係数です。分子軌道法の種類によって、各元素に対する基底関数χ は決まっていますので、分子軌道ψ を求めるということは、 を決めることにほかなりません。そのための方程式は、通常、式(2)、(3)を式(1)に代入したものに対してE が最小になる条件(変分法)、
∂E/∂ =0 (4)
から導かれます。変分原理により、変分パラメータ の数が多いほど、すなわちより多くの基底関数を用いるほど近似解は厳密解に近づくことが保証されています。解くべき連立方程式は、
Σ(F −ε ) =0 (5)
ε は 番目の分子軌道のエネルギー、 は重なり積分、FはFock行列です。また、Fは求めたい量 を含んでいますので、以下のような繰り返し計算によって式(5)を解かなければなりません。
@ を適当に仮定してFをつくり、これを使って式(5)を解く。
A 得られた を用いてFをつくり、再び式(5)を解く。
B Aを繰り返し、仮定した と式を解いて得られた の差が、ある「しきい値」以下になるまで、すなわち収束するまで繰り返す。
この手法はSCF(Self Consistent Field)法と呼ばれています。以上の計算によって、各分子軌道の形とエネルギー準位が求められます。
式(5)中のFと は相当量の積分を含んでおり、分子量が大きい場合には、現在のコンピュータの性能をもってしても、すべての積分値を求めるためにはかなりの時間を要します。そこで、これらの積分を解くことをしないで、経験的な値(パラメータ)を代入して計算時間を節約する方法がいくつか提案されています。表1に代表的な例を示しました。通常は、経験値の採用の程度によって経験的、半経験的、非経験的分子軌道法という分類がなされています。もちろん、積分値を経験的なパラメータで置き換えることによって、得られる結果の信頼度は低下し、その定量性も失われてきます。したがって、これら一連の分子軌道法に対して定性的、定量的という分類もできるでしょう。なお、経験的なパラメータを全く用いない 法(ラテン語で「初めから」の意)の中にもたくさんの近似法があり、計算時間や結果の定量性が大きく異なりますが、それは、上述の基底関数の数と質の違い、さらには配置間相互作用、電子相関、相対論などの取り込みの有無によるものです。
3.4 入出力例
以上の説明を読まれて、分子軌道法とは難しいものだと感じられた方もいるかもしれません。しかし、現在は上に述べたような計算手順を自動的に行ってくれるソフトウェアが企業あるいは公的機関から入手可能ですので、以下述べるように、実際に分子軌道法計算をコンピュータ上で行うことは非常に簡単となってきています。極端な話、そこらへんの気の利いた小学生をひっぱってきて5、6分間教え込めば、コンピュータゲームよりも簡単に計算結果を出すことができます(しかし、単に計算結果を出すことと、その結果を理解し活用することとの間には大きな隔たりがあります。この状況は、最近の精密分析機器の操作が非常に簡便化してきていることと似かよっています)。
入力データの一例として、再びエチレン分子を取り上げます。ここでは、エチレンの構造を最適化し、最適化されたエチレン分子の分子軌道の形とエネルギー準位、各原子上の電荷量を計算することが目的であると仮定します。エチレン分子の初期構造と入力ファイルを図6に示しました。これは、表1中の 計算を実行することのできるGaussian98というプログラムの入力形式です。最初の行はキーワードの行、空白行をはさんで3行目はタイトル行、5行目は分子の電荷と縮重度を指定する行です。6行目以下がエチレン分子の初期構造で、Zマトリックスという書式で書かれています。この場合初期構造としてC−C結合距離が1.3Å(オングストローム=10-10m。量子化学分野では現在でもよく用いられています)、4つのC−H結合距離がすべて1.0Å、4つのH−C−C結合角がすべて120°であると仮定しており、これらの値が計算によって最適化されます。4つのC−H結合距離と4つのH−C−C結合角がすべて等しいと仮定したのは、エチレン分子の対称性に基づいています。180.0というのはH−C−C−Hの2面角で、ここでは最適化しないことにします。すなわち、エチレン分子は完全な平面分子であると仮定しました。最適化しない場合には、このように直接数値を与えればよいのです。また、たとえば、11行目の6番目のH原子における2、1、4という数字は、6-2の結合距離がCH=1.3Å、6-2-1の結合角がHCC=120°、6-2-1-4の2面角が180°であることを意味しています。
計算に必要な入力データはこれですべてです。すなわち、各原子の空間的な相対位置をコンピュータに教えるだけです。このようなファイルはワープロやエディタなどで容易に作成できます、画面を見ながら自在に分子を構成しさらに入力ファイルを作ってくれるソフトウェアも市販されています。小学生でもできると述べたのは、このようなソフトウェアがあるからです。あとは、コンピュータに計算実行の命令を下すだけです。なお、C−Cの結合が図6では単結合になっていますが、これは誤植ではありません。分子軌道法計算において結合次数の情報を入力ファイルに含める必要はなく、その結合の次数がいくらになるのかは計算によって明らかにされます。また、その次数は整数とは限りません。
次に、計算後の出力データを図7に示しました。実際の出力は1200行余りにわたるので、必要な部分だけを抜粋しました。途中の構造最適化の部分を省略し、最適化構造が得られたところから始めます。なお、構造の最適化は、全エネルギー(原子核間反発ポテンシャル+全電子エネルギー)が極小値になるまで、ある一定の手順で自動的に分子の立体構造を変化させることによって得られます。最適化構造での原子核間反発エネルギーは33.7原子単位、全電子エネルギーは-77.1原子単位で、両者を合計したものが全エネルギーとなります。次に、最適化された構造パラメータが印字されており、C−C結合距離は1.306Å、C−H結合距離は1.082Å、H−C−C結合角は122.2°であることがわかります。実測値はそれぞれ1.339Å、1.086Å、121.2°です。この例で用いたSTO-3Gという方法は 法の中でも最下級の方法であり、精度の高い方法を用いると、実測値にさらに近い値が得られます。ただし、精度の高さに応じて計算時間は飛躍的に増大します。
次に分子軌道の形とエネルギー準位が示されていますが、エネルギー準位は原子単位で、形は各原子軌道の係数で表されています(分子軌道1から3は省略)。これをみると、エネルギー準位の低い順番に8番目の分子軌道まで電子が入っていることがわかります。8番目の分子軌道はHOMO(Highest Occupied Molecular Orbital、最も電子を与えやすい軌道)、9番目の分子軌道はLUMO(Lowest Unoccupied Molecular Orbital、最も電子を受け取りやすい軌道)で、両者はフロンティア軌道とも呼ばれ、化学反応性が最も高い分子軌道です。原子軌道の係数 をみると、HOMOは結合性π軌道、LUMOは反結合性π軌道であることがわかります。Chem3Dというソフトを使って、HOMOとLUMOの分子軌道を図8に示しました。いわゆるπ軌道です。また、4番目から7番目の分子軌道は図6中の5本の化学結合に寄与する分子軌道ですが、これらをみると各電子が分子中に非局在化していることがわかります。すなわち、エチレン分子などにおける「 2混成軌道」というものは、一部分子の化学結合様式を説明するために考え出された人工的な概念で、真実を表してはいないのです。
さらに被占分子軌道の係数を用いてMullikenのポピュレーション解析が行なわれ、各原子上の電荷量が計算されています。これによると、エチレン分子中の炭素原子と水素原子はそれぞれ-0.127と+0.064の電荷を持っていることがわかるでしょう。なお、各原子上に電荷を振り分ける(全体で0)方法にはいくつかあり、デフォルトのMullikenポピュレーション解析が気に入らなければ、入力ファイルのキーワードの行で他の方法を指定します。最後に計算結果の要約がなされ、出力は終わります。cpu timeは14秒(Pentium4、1.8GHz)ですが、この時間は分子軌道法の種類で2桁以上異なり、おおまかに原子数の3乗に比例します。なお、Gaussianシリーズは大型からパソコンまで対応しています。
以上はごく簡単な計算例でしたが、さらに進んだ研究、たとえば、各種スペクトルの予測や反応機構解析なども、入力ファイルにいくつかのキーワードを追加することによって行うことができます。
4.量子化学の目で見た粘土
2:1型層状ケイ酸塩粘土鉱物(モンモリロナイト、バーミキュライトなど)は構造中に同形置換由来の負電荷を有しており、この負電荷の存在が、これらの鉱物が示す吸着能、触媒能など様々な表面活性の起源となっています。さらに、同形置換の量と位置の違いが、各鉱物種における表面活性の違いをもたらしています。これまでは、同形置換の量と位置の違いが表面酸素原子の電荷密度に反映し、その表面電荷密度の変化が表面活性の変化をもたらしていると理解されてきました。その端的な例は、モンモリロナイトよりもバーミキュライトの方が、陽イオンをより強く吸着することに対する解釈です。すなわち、八面体層置換鉱物であるモンモリロナイトでは、同形置換による−1の過剰電荷は上下10個の表面酸素原子に分配されるが、四面体層置換鉱物であるバーミキュライトでは同形置換位置の3つの表面酸素原子のみに−1の電荷が分配される。したがって、より負に帯電しているバーミキュライトの表面酸素原子の方が陽イオンを強く吸着する、という考えです。この考え方は広く世界中の粘土学者や土壌学者に受け入れられています。
この説明は一見論理的で、非のうちどころのないものに思えます。また、この解釈によって、たとえば陽イオン交換選択性や膨潤挙動などの実験事実の大部分を見事に説明することができるのも事実です。しかし、ここで筆者は、同形置換によって生じた電子1個分の負電荷が、単純に表面酸素原子にのみ分配されるのであろうか、という疑問を抱きました。そして、分子軌道法でためしにAl(OH)3とSi(OH)4について計算してみたところ、LUMOはおもに中心原子(AlとSi)に分布していることが分かりました。すなわち、これらの酸化物中では、O原子よりもむしろAl原子やSi原子の方が電子の受容性が大きいこと、すなわち、過剰の負電荷(電子)はO原子ではなくAl原子やSi原子集まりやすいことが示唆されました。
そこで、2:1型層状ケイ酸塩粘土鉱物のモデルクラスターを組んで、同形置換が生じる前後の電荷分布の変化を表1のPM3法とMullikenのポピュレーション解析で計算しました。図9においてPtはパイロフィライト(電荷0)、Mtはモンモリロナイト(電荷−2、八面体層置換)、Vtはバーミキュライト(電荷−2、四面体層置換)を示しています。計算された各原子上の電荷量のうち、表面酸素原子の電荷量に着目すると、同形置換がないPtが-0.59であるのに対し、MtとVtのそれは-0.57と-0.55でした。同形置換後に表面酸素原子の電荷量が、より負の値になることはありませんでした。電荷量がより負の値になっているのはアルミニウムとケイ素であり、Al(OH)3とSi(OH)4での計算結果と一致しました。
上記の計算結果は、表面酸素原子の負電荷密度の違いという観点からモンモリロナイトとバーミキュライトの表面特性の違いを説明することはできないことを意味しています。すなわち、この両鉱物の表面特性の違いを説明するためには、表面酸素原子だけではなく、層全体としての電荷分布を分子軌道法で求め、それを再現するモデルを組んで分子動力学やモンテカルロ計算を行うことが必要となります。
電荷分布のほかに、四面体層置換鉱物と八面体層置換鉱物の表面特性の違いに大きく寄与している因子は、両鉱物におけるHOMOの分布の違いです。すなわち、交換性の陽イオンに対して供与されるであろう最も不安定な(高エネルギー状態、活性)電子が、構造中のどこに存在するかということです。図10に示しましたように、バーミキュライトモデルの場合、HOMOはおもに表面酸素原子上に分布していました。それに対し、モンモリロナイトモデルの場合には、表面酸素原子と内部の酸素原子にほぼ同程度分布していました。このことは、バーミキュライトモデルの表面酸素原子の方が、モンモリロナイトモデルの表面酸素原子よりも、電子供与性に富んでいること、すなわちより活性であることを示しています。両鉱物において、負電荷をもつ粘土骨格が交換性陽イオンなどの陽イオンと相互作用する場合、クーロン引力に加えて、フロンティア軌道を通しての電子の授受が、その相互作用の大きさを決定しているのです。
一般に、化学反応を支配するのはクーロン引力及び電子の授受であり、それぞれ charge control 及び frontier control と呼ばれています。粘土鉱物がアルカリ金属などと相互作用をする場合はフロンティア軌道(HOMO)の影響は小さいでしょうが、遷移金属元素や電子受容性の高い有機化合物のように強い相互作用をする相手の場合には、frontier control 的な性質は無視できなくなると思われます。しかしながら、これまで粘土の性質や他物質との間の相互作用をフロンティア理論に基づいて調べた例はほとんどありません。
粘土科学の分野を見渡してみますと、未解決の問題や、理論解釈がどうもすっきりしないという問題の中で、分子軌道法のような理論的手法が大きな手助けになると思われることが、数多くあるように感じます。ほかの自然科学系分野でも似たような状況があるのではないでしょうか。一見完成されたかにみえる理論や暗黙の了解事項、経験則はあるが理論的裏付けがないものなど、もう一度現代科学の手法で再検討すべき事柄はいくらでも存在します。分子軌道法などの現代科学的手法は、単に現象に対する理由付けができるだけではありません。根源的な法則を明らかにすることによって、さらなる発展へのヒントを与えてくれるのです。