『大いなる遺産』
--反復する自伝、終わりなき修正作業について梶 山 秀 雄序ディコンストラクション派の総帥、ジャック・デリダは、ルソーの『告白』の精読を通して、「代補」の論理を明らかにした。代補とは、その中にふたつの意味をひそませているもので、自足している何かに付加される非本質的な余剰でありながら、それと同時に自足しているとされる何かの欠如を補うために付加される両義的な存在である。ルソーにとって本質的なのは「話される言葉」であり、非本質的な余剰とは「書かれる言葉」である。書かれる言葉を「現前性の破壊であり、話される言葉の病」であると言う時、ルソーが恐れているのはテキストにおける主体の不在性と誤読の可能性である。 ここで前提とされているのは、話される言葉/書かれる言葉、そしてこれに付随する自然/文化、あるいは、文字通りのもの/譬喩的なもの、といったさまざまな二項対立において、常に前者に価値が置かれ、暗黙のうちにこの対立の上位のレベルに位置しているという「ロゴス中心主義」である。この図式はルソーの『告白』という特定のテキストを離れて、自伝という言説自体についても適用される。第一巻の冒頭の「自分と同じ人間仲間に、ひとりの人間を自然のままの真実において見せてやりたいのだ」 1 という宣言は、告白することによって「自然のままの私」、「真実の私」に到達できるという確信に基づいている。そのためには一切の虚偽を廃さなければならない。こうした真実への探求の姿勢が、ルソーをして自伝という文学ジャンルの鼻祖たらしめ、後世の作家に甚大な影響を与えることとなった。 しかし、「書かれる言葉」に誤読の可能性がつきまとうのは、いかにしても避けられない事態である。自伝作家が誤読を排除しようと、「真実の私」、「自然のままの私」を追求すればするほど、テクストは「虚構の私」に汚染され、「偽りの私」をさらけだすというパラドックス。デリダは、そうした遡及的に見いだされる「純粋な私」を「理論的フィクション」("theoretical fiction") 2 とであると断じ、次のように述べる。 「危険な代補」のつながりを追うことによって示そうとしてきたのは、これらの「切れば血の出るような」人々のいわゆる実生活の中には、つまりルソーの作品としてはっきりと区画出来ると信じられているものの向こう側や背後には、実は書かれた言葉以外の何物も存在したことはないということである。差異的に相互指示を行う連鎖としてしか現れえない代補性と代理的な記号作用しかあったためしはないということである。痕跡から意味を借り、あるいは代補性に依拠しない限り、「現実的なもの」は到来しないし、付加されもしない。この過程は無限に続く。 3書かれた言葉が全てであり、そこから離れた場所には「現実的なもの」はない、とする考えは、ややもすればテキスト至上主義者のそしりを免れえまいが、むしろ問題は、自伝作者が自伝にひそむ虚構性(=代補性)を余剰だとして抑圧し、あたかも真実の自己に到達できるかのような素振りをすることにある。 この小論は、そうした書くことのアレゴリーとも言うべき、自伝の死角について考察することを目的とする。テキストとして使用するのは、チャールズ・ディケンズ(Charles Dickens)による自伝的小説の完成形とも言うべき『大いなる遺産』(Great Expectations)である。ディケンズによる一連の自伝的小説は、ともに伝統的な自伝的作法を守っているように見えながらも、虚構の配合において微妙な齟齬をきたしている。真実と虚構のはざまを揺れ動く自伝の精神性を捕獲するとともに、自伝という文学ジャンルを成立させる時間感覚についても併せて考えてみたい。 I自伝とは何か? 自伝研究は、ようやく最近になって文学研究の周辺部から中心部に移行してきた感があるが、その一方で研究対象である自伝の定義すらはっきりしていない。スペンジマンが指摘するように、それぞれの研究における自伝の定義は、あたかも「主としてその定義が指定する作品にあてられた用法の機能」であるかのような混乱状態である。4 それでも自伝を考察するにあたっては、一時的にであれ立脚点を設定しなくはならないだろう。さしあたり一般に流通している自伝のイメージは、およそ『フランクリン自伝』(The Benjamin Franklin's Autobiography)にある次のような文句に集約されると思われる。 Having emerg'd from the Poverty and Obscurity in which I was born & bred to a State of Affluence and some Degree of Reputation in the World, and having gone so far thro' Life with a considerable Share of Felicity, the conducing Means I made use of, which with the Blessing of God, so well succeeded, my Posterity may like to know, as they may find some of them suitable to their own Situations, & therefore fit to be imitated.5ベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin)が自身の半生を語る際に、前提とされるのは先達の話を聞くのは、読者にとって有益なものになるだろう、という啓蒙の意識である。事実、我が国でも明治年間には、フランクリンの自伝は盛んに読まれ、やはり筋金入りの合理主義者であるサミュエル・スマイルズの『自助論』、福沢諭吉の『福翁自伝』とともに近代精神を形成する基盤になったとされている。フランクリンに代表される啓蒙の意識を支えているのは、綿々と続く人類の歴史の中で、啓蒙的主体は確実に改良されていくという進歩的歴史観である。またこうした歴史観は、家系や個人の生涯とも容易に接続される。フランクリンが"I have ever had a Pleasure in obtaining any little Anecdotes of my Ancestors"と言う理由はここにある。しかしながら、フランクリンの自伝は、そのように確固とした歴史的言説であると同時に、「生涯を振返り、そして思い出したことを筆にしてできるだけ永久のものとした」はずのテクスト自体が、作者たるフランクリンの意図をすり抜け、自伝という文学ジャンルにひそむ虚構をあらわにするような構造を有している。 あらゆる言語活動がそうであるように、自伝という比較的安定しているかに思われるナルシシスティックな言説もまた自己について語ることの不可能さ、自己言及のパラドックスを免れえない。単純化していってしまえば、自己言及のパラドックスとは、どんな形式的体系もそれが無矛盾的であるかぎり不完全である、ということである。6 後世の人々に語って聞かせるに足るテクストとして、どれだけフランクリンが自身の半生に整合性を与えようとしても、テクスト自体が、内部からそのような歴史的一貫性を破壊し、脱構築的な契機を提供することになる。例えば、何度でも自分の過去を繰り返してもよい (I should have no objection to a repetition of the same life from its beginning)、と述べた後に、フランクリンは"only asking the Advantages Authors have in a second Edition to correct some Faults of the first"と若干の留保をつける。事実、フランクリンは改訂にあたって何度もこの自伝に手を加えている。7 フランクリンが改訂しようとするのは、先行するテクストの誤植だけではない。巽孝之氏が指摘するように、フランクリンは自身の人生すらも書物に見立て、出来ることならば筆を加えて修正したいと考えていた。8 人生を一冊の書物とする隠喩は、とりたてて目新しいものではないが、ここで注目したいのはフランクリンが、人生という対象がまずあって、それを書き綴るのではなく、逆に自らの人生を、書き換え可能なテクストとみなしたことである。前述したように、ルソーは、『告白』において、「ありのままの自分」を探求するためには真実を隠さずに語ろうとした。それだからこそ、スタンダールは「ルソーのように巧妙な嘘をつかないために」と、『告白』の虚構性を告発し、後の自伝作家は、いかに真実に到達するかを競う自伝ゲームを継続した。9 しかしながら、フランクリンの戦略は、そうした自伝についてまわる虚構性を看破しながら、あえてそれを逆手にとったものなのである。 自己完結的な自伝という文学ジャンルが密かに虚構(小説)と結託する一方で、デフォーの『ロビンソン・クルーソー』の序文を読めば分かるように、小説は「これは事実なり」と宣言することで、言説の確実性を保とうとする。こうした事実/虚構の二項対立は、事実の優位性に支えられており、その基本的図式に変化はない。進歩的歴史観に支えられ、過去の自分と現在の自分を直線的な時間で結ぶフランクリン。そして、直線のズレを修正することに汲々とし、時には直線をねじまげようとさえするフランクリン。我々が慣れ親しんでいるのは前者の顔であり、後者の顔、いわば小説家フランクリンの顔は巧みに隠蔽されている。『フランクリン自伝』というテクストが物語るのは、この二人のフランクリンの相克であり、到達不可能な過去を「ありのまま」に描こうとすれば、否応なく虚構が入り混じってしまう、絶望的なまでの現在と過去の断絶なのだ。サルトルの言葉を借りれば、「全ての自伝は死亡記事」であり、現在の自分とテクスト内の過去の自分には、宿命的な乖離がある。現在の自分と過去の自分にある決定的な溝、決して埋まることのない溝を埋めようとするのが自伝を書くという行為にに他ならない。それだからこそ、フランクリンは自伝を書く作業を反復せざるを得なかったのである。 II絶え間なき修正作業という反復、また人生をもう一度やり直すという反復、フランクリンの自伝から読み取れる「反復(repetition)」という言葉は、精神分析批評にとっても格好の題材となりそうである。過去の精神的外傷、そして癒しの作業としての記述。また、加筆修正作業には、当然ながら自らの自伝を読み直すという行為が含まれるだろう。読みと再解釈、そして無限に重ねられる書き込み。ここでは、自伝(的小説)に現れる「反復」を手がかりに、自伝における作家の精神性を探ってみたい。 ここで一人の男に登場してもらうことにしよう。その男は幼児期に精神的な孤児となり、生涯その傷を抱え続け、一度は自伝を著そうとしたものの断念し、自身の経験を小説に託して、いくつかの自伝的小説を書いた。フロイトよりも44年早く生まれた男の名は、チャールズ・ディケンズ。そして、『デイヴィッド・コパーフィールド』(The Personal History of David Copperfield)の次のような一節――― No words can express the secret agony of my soul as I sunk into this companionship …; and felt my hopes of growing up to be a learned and distinguished man, crushed in my bosom. The deep remembrance of the sense I had, of being utterly without hope now; of the shame I felt in my position; of the misery it was to my young heart to believe that day by day what I had learned, and thought, and delighted in, and raised my fancy and my emulation up by, would pass away from me, little by little, never to be brought back any more; cannot be written. 10多くの研究者の指摘によれば、この小説においてディケンズは「語りえぬ」自分自身の苦い経験を、主人公デイヴィッド(David)の経験として小説の中に書き入れた。当時12歳のディケンズ少年は父親の借金が原因で、「下層の労働者や少年たちに混じって、みすぼらしい子どもの姿」で、家計を助けるためにウォーレン靴墨工場で働く破目になった。この体験がよほど屈辱的であったのか、長じてからも家族の者にさえ話すことはなかった、というのが、いわゆる伝記的な事実である。11 この数ヶ月の体験が、ディケンズの精神形成、そして創作活動になんらかの影響を与えたことに間違いはないだろうが、はたしてそれがディケンズをして自伝の執筆を断念させるような、いわゆる精神的外傷、語りえぬ領域に属する記憶の全てだったのかというと疑問が残る。なぜなら、さらなる(無意識の)過去へと無限に遡及可能であるという意味で、靴墨工場での記憶は意識化された表層にすぎない。ここで重要なのは、表象可能な過去「ウォーレン靴墨工場」ではなく、そこからこぼれ落ちた、そしてディケンズを自伝的小説へと駆り立てる、真の意味での「語りえぬ」過去である。 精神分析批評的な立場からすれば、テクストを読むことは、語り手の深層構造や無意識な自己暴露を探ると同時に、事実的な発言と虚構的な発言の区別をあえて曖昧にし、いずれも精神の象徴的表出として処理することでもある。 12 ディケンズの自伝的小説は、「ありのままの自分を見せよう」とするのではなく、自身の「語りえぬ」過去を、虚構化し、受け入れやすい形にして、抑圧しようとする心的過程として解釈できる。作家の自意識がテキストに与える影響を考える上で、もっとも分かりやすい例は、夢の加工作業であろう。フロイトによれば、夢の本質は、無意識の願望充足であり、しかもそれは象徴的な形で造形されている。おぞましい過去を直視することを避けるために、夢は意味を圧縮し置き換えることで、「解読を要する象徴的なテキスト」と化す。私達が読んでいるのは、そのような加工作業を経たディケンズの過去なのである。しかしながら、そのような抑圧作業には終わりがない。いかにテキストの中に自身の過去を封じこめてしまおうとしても、テキスト内部に綻びが生じて、作家/作品における作家の優位性、束の間の静止状態は、いずれ破られてしまう運命にある。かくして、ディケンズは新たに自身の過去を書き直す衝動に駆られて、より虚構の濃度を高めた自伝的小説、『大いなる遺産』を書くことになる。 The book [Great Expectations] will be written in the first person throughout, and during these first three weekly numbers you will find the hero to be a boy-child, like David. … To be quite sure I had fallen into no unconscious repetitions, I read David Copperfield again the other day, and was affected by it to a degree you would hardly believe. 13引用した手紙において、ディケンズは次回作にあたる『大いなる遺産』を執筆するにあたり『デイヴィッド・コパーフィールド』(以下『デイヴィッド』)を読み直したと書いている。ここでディケンズが言っている「無意識的な反復に陥ったりはしない」とは、『大いなる遺産』が先行する自伝的小説『デイヴィッド』の変奏になるという意味であろう。実際、これら二つの作品は、導入部の舞台となる墓場、家族から虐げられている(精神的)孤児、そして愛する者の死によって主人公が精神的な成熟に至る過程を描くなど、設定、登場人物、プロットにおいて共通する部分が多い。なるほど、そうした意味では『大いなる遺産』は「意識的な反復」と取れなくはない。しかしながら、"unconscious" や"repetition"という言葉を使いながらも、意識的な反復の背後にある「無意識の反復」について、すなわちどうして自伝的小説を書くことを反復するのか、について、ディケンズ自身が意識的であったとは言いがたい。 フロイトが、マジック・メモという名の痕跡を残すメモ装置のモデルで考えたように、無意識の根底をなす記憶のメカニズムは、「書く」というエクリチュールの動き、さらに言えば「書き直す」=事後性の動きとして捉えることが出来る。14 つまり、患者が外傷として記憶することの多くは、後から構成されたものである。最初に不快な経験や外傷を生む経験が「現実に」存在していたのではなく、あるきっかけによってそれが事後的に構成され症状を生む。このような記憶のメカニズムを、「自伝を書く」という行為に重ね合わせるのは比較的容易である。しかし、ここで問題となるのは、そうした記憶=無意識の心的過程には時間の概念が存在しないということである。フロイトの言う事後性とは、根源的な体験があり、それが遅れてやってくるのではなく、そのような「遅れ」こそが根源的であるということである。ディケンズの場合でも、まず「ウォーレン靴墨工場での経験」という根源的な過去があり、それを自伝的小説に書くことで再現するのではなく、「それを(言語的な)記憶として再生するのではなく、行為として再現する」 15 と言った方が適切であろう。『デイヴィッド』、『大いなる遺産』と続く自伝の反復が物語るのは、そうした到達不可能な、「語りえぬ」領域に属する過去を、書くことによって再解釈し、捕捉しよ・うとするディケンズの姿なのである。 III自伝という文学ジャンルが中世初期、聖アウグスチヌスの『告白』で突然始まったという説を採れば、自伝を形成する重要な要素の一つが、フランクリンに見られるような普遍的歴史とのアナロジーで語られる個人の歴史であることは間違いない。すなわち、「現在の私」が「過去の私」を記述することが可能なのは、「持続する時間」もしくは「直線的時間」とでも呼ぶべき、現在を中心とした均質な時間が流れているという前提があってこそである。このような時間意識が生まれる以前の社会においては、太陽の運行や季節の循環、といった自然のめぐりをベースにした「円環的時間」が支配的であった。円環的時間においては、こうした神聖な自然=神の「反復」を前にして、時間を有効に使うことなど許されない。キリスト教社会の成立によって初めて、天地創造を起点とし、終末論を終点とした直線的時間の概念が導入されるが、微視的にはキリストの生以前に個人の生の歴史は存在せず、一切は神の導きによる永遠の円環的時間に回収されるという側面があった。こうした状況の中で、聖アウグスチヌスが実践したのは、神ならぬ超越論的な立場から自己を描くことであった。そこぁwf必然的に生まれたのが、自己の誕 ディケンズの作品群には、過去の時間が突如蘇って劇的な展開を巻き起こすというものが少なくないが、おそらくは19世紀のそうした気分を反映したものなのであろう。 『大いなる遺産』は、"expectations"という輝かしい未来を連想させる言葉を冠する一方で、その実、主要な登場人物の誰もが過去に縛られている物語である。婚礼の日に婚約者に裏切られ、以来、時間の止まったまま色あせたウェディングドレスを着て過ごすミス・ハヴィシャム、育ちが悪いと見なされて主犯のコンペイソンよりも重い刑を科され、ピップを「紳士」に仕立て上げることで社会に復讐しようとするマグウィッチ、ミス・ハヴィシャムの養女となり「心を盗み」とられ、「その代わりに氷の塊を入れ」られたエステラ。主人公(=語り手)であるピップ(Pip)も例外ではない。しかしながら、ピップの自意識は先行する自伝的小説『デイヴィッド』のそれとは微妙に異なっている。 My FATHER'S family name being Pirrip, and my christian name Philip, my infant tongue could make of both names nothing longer or more explicit than Pip. So, I called myself Pip, and came to be called Pip.誰であれ、自伝を書く際に問題となるのは、どこから書き始めるか、どこから自分の人生が始まったことにするかということである。先行する作品の主人公デイヴィッドはスタート地点を出生に定め、ピップは物心がついた時期から後を自分の人生だとする。しかしどちらの場合にも致命的なのは、自伝の作者は自身の起源を失っているという事実である。それを他人の話であれ(フランクリンが「祖先の逸話を集めることを好んだ」ことを想起してもよい)、想像力によってであれ、作者はぽっかりとあいた起源を何かほかのもので補完するしかないような不安定な状況に置かれている。既に見たように、脱構築的な見地からすれば、「現前的な(充満)した起源」は幻想に過ぎないが、フランクリンが名をなした根拠を家族の歴史に求め、安穏としていたのに比べて、この「忠告、助言、励まし、慰め、援助、何ひとつ誰からも与えてもらった記憶がない」作者によって書き綴られる孤児たちは、そのような根拠を持たず、想像力でその空白を補うしかないのである。それでもデイヴィッドが綿々と続く自伝(的小説)の伝統を踏襲するかのごとく、自分を語る際にまず持ち出すのは家族のことである。それに対して、ピップの物語はクリスチャンネームを捨て、自分が発音出来るように名前を書き直すことから始まる。引用した冒頭部分の名付けは,他律的なキリスト教的時間から放り出されて、自律的な自我を形成しようとする決意の表明なのである。かくして、いわば啓蒙的主体として第二の生を受けたピップにとっては、自身の存在を保証してくれる筈の神の言葉も単なるテクストに過ぎない。
My construction even of their [the family tombstones'] simple meaning was not very correct, …Neither, were my notions of the theological positions to which my Catechism bound me, at all accurate; for, I have a lively remembrance that I supposed my declaration that I was to "walk in the same all the days of my life," laid me under an obligation always to go through the village from our house in one particular direction, and never to vary it by turning down by the wheelwright's or up by the mill. (42)こうしたテキストを「文字通り」解釈する、汎テクスト主義者とも言える身振りは、啓蒙的主体に特有のものである。19 また、ここで個人の生涯が、決して曲がることのない直線のイメージで語られていることも注目に値する。しかしながら、そうしたピップの啓蒙的精神も、物語が収束するに従って円環的時間へと取り込まれていくことになる。別言すれば、冒頭で切り離したはずの過去にピップは再び取り込まれ、物語は急速にダイナミズムを失っていくのである。いかにも唐突に訪れる過去との和解は、プロットの展開を快楽とする読者の興味を削ぐのに十分な成り行きだが、しかしこうした円環的時間への回帰は、自伝(的小説)に内包された、ある意味で必然とも言える結末なのである。 20 ディケンズの自伝的小説であると同時にピップの自伝とも言えるこの作品は、故郷に残して来たジョーとの和解、そして恩人であると同時に、自身の夢を打ち砕いたマグウィッチの死をもって完了する。この際に目に入るのが、ジョーを評する"this gentle Christian man"(458)という言葉、そしてマグウィッチの死に際して発する祈りの言葉、"Please God, I will be as true to you, as you have been to me!"(442)、"O Lord, be merciful to him, a sinner!" (455)、である。先に自伝を形成するにあたって、円環的時間から直線的時間への変化が起こったと書いたが、このような時間意識の移行、宗教から啓蒙精神への推移は、キリスト教に特有の、そしてピップがマグウィッチに対して感じているような罪の意識によって可能になったと考えられる。岸田秀氏が指摘するように、「時間は悔恨に発し、空間は屈辱に発する。時間と空間を両軸とするわれわれの世界像は、われわれの悔恨と屈辱にささえられて」いる。 21 罪の意識、悔恨がハサミを入れて、時間の輪がはらりと崩れて直線になるようなイメージを思い描けばいいだろうか。いずれにしても、聖アウグスチヌス、ルソーの自伝にそれぞれ「告白」(Confessions)というタイトルがつけられているのは偶然ではあるまい。ピップの自伝もまた、啓蒙的主体として出発しながらも、やがて円環的時間に取りこまれることで終わる「告白」なのである。 自伝は、過去と現在の乖離に目をつぶり、あたかもそれらが連続しているかのように語り、自伝的小説は、この溝に想像力の橋をかける。しかし、どちらも過去の時間を再現する際に、自分だけの意匠に照らして、恣意的に自己を創出しているという点では変わりがない。自分の過去は他にもありえたのではないか、自分の過去を語る方法は他にもありえたのではないか。神が支配する円環的時間から切り離された個人が手にしたのは直線的時間であり、その直線上において初めて自分について語ることが可能になった一方で、自伝作者にとっての悲劇は直線が一本だけではなかったことにある。かくして作者は終わらない告白を義務づけられる。それは絶え間ない加筆修正作業であり、決して書くことの出来ないもう一つのエピソード、死を迎えるまで続く。 注
SYNOPSISThe logocentrism works at one of the most famous autobiographies, Benjamin Franklin's autobiography. When Franklin said "I have ever had a pleasure in obtaining any little anecdotes of my ancestors," he obviously expressed his view of life based on the historical view of the Enlightenment: as the history continues to improve, the human life is getting better. In order to enlighten people, Franklin rewrites his autobiography repeatedly, and the text continues to slip out of his hands and gives the reader the deconstructive moment. As the nineteenth century was called the century of autobiography, this literal style had the profoundly enlightening effect on the people. Writing autobiography is a "democratic vehicle" which makes possible the production of the self. It encourages a private thought and enables the writer to objectify his/her own experience and to regard himself/herself as individual. The trend can be seen in the autobiographical novels of the contemporary novelist Charles Dickens. But, why did Dickens write not autobiography but autobiographical novel and why was he attracted to the self- descriptive form? From the viewpoint of psychoanalysis, there is an analogical equivalence between the functioning of the psychic apparatus and that of the text. It is necessary to examine what made Dickens write autobiographical novels by investigating the unconsciousness of the texts. It is well known that Dickens was forced to work in a blacking-warehouse because of his father's debt and the cruel remembrance never faded away. Dickens wrote the bitter experiences in the form of autobiographical novel, such as David Copperfield, to be free himself from their binding. Although he created a hero who can be identified with him in some respects, he kept away from the danger of narrating his own experiences directly. This displacement means that Dickens had a space for fictionalisation in this novel so as not to confront with his traumatic past. However, the repressed memory in a displaced form always recurs. Thus he had fallen in unconscious repetition and wrote his autobiographical novel repeatedly. Great Expectations is also Dickens's autobiographical novel. In the notable first scene, the hero Pip "called himself Pip" and "came to be called Pip." He gives himself the original name and he is released >from his real name, Phillip Pirrip, which symbolises his "dead and buried" family relationship." The self-naming act is the statement that Pip is a spontaneous subject insulated from the past. All autobiographical narration must necessarily be obituary and must in any event explicitly show margins outside the narratable sphere. The leftover spaces allow the narrating "I" to objectify and look back at the narrated "I". The separation of the present and the past is necessary and inevitable. In order to escape >from the continuity of time and to keep the sense of being unjustified as an orphan, Pip begins his life story by recognising himself as a parentless protagonist. In autobiographical narration, the past is connected with the present directly as if the duration of time were a straight line. The idea of time enables us to narrate the past from the point where we stands now. The straight time is opposed to the circulating time. Traditionally, time was considered to circulate to the round of the sun and the seasons. In Christian society, Christ's life is prior to an individual life and all lives harmonise with God in the eternal circulating time. When Pip writes himself transcendently without God, it seems that the idea of time changes from the circulating to the straight, but the circulating time never disappears. In the end of the story, Pip prays to God for forgiveness of Magwitch's sins. Pip's life story starts with establishing an independent subject and ends with homing to God, as a confessor confesses his own fault and is forgiven at last. Autobiography presents the difficulty, or rather the impossibility of self-description. While the author strives to escape from the traumatic past and to govern and master the text, it resists his authority and exposes its vacancy. The author is condemned to repetition and re-writing of his own autobiography in the knowledge that what he writes as "pure self" will be "polluted self" or "misread self." The endless confessions continue until the only event that cannot be written in his autobiography, death. |