日本ギャスケル協会

生涯と作品


エリザベス・ギャスケルの娘時代 (1810-1832)

 イギリス北部の煤で黒ずんだ工業都市、マンチェスターは、朝のばらの花のように清らかで新鮮な香りをもつ女流作家エリザベス・ギャスケルを生んだ。
 ある批評家は、彼女の作品は、油絵の重々しい風格ではなく、水彩画の軽いタッチであるとし、また大規模な果樹園の趣きではなくて、こじんまりと花の植えられた庭の趣きであるとして、彼女の文学的価値に限界をあたえている。1
 しかし処女作、『メアリ・バートン』の中で一世紀前のマンチェスターの都の歴史的な労資の争いの鋭い描写の内側からにじみ出てくるギャスケル夫人その人の善意にみちた人間愛と正義への共感、または不朽の名作として宝玉のように輝く中篇小説『従妹フィリス』からあふれ出てくる田園生活の抒情性、あるいはクラシック作品の中でさんぜんと特異の存在を占める『クランフォード』に描かれている汚れた文明文化の塵埃にいささかもおかされない無垢の人間像、さらに『シャーロット・ブロンテの生涯』のすべてのページに織りだされた孤独な人間の生命の悲哀、また数々の名篇に描かれた心打つ純愛および哲学的人生思考、−−これらの強烈な印象は、現代の読者の心に、ギャスケル夫人の文学的価値を大きくうつし出してくれる。
 ギャスケル夫人ほど一作ごとに新しい分野に作品のテーマを開拓していった作家は少ないのである。6篇の長篇小説の中、処女作、『メアリ・バートン』では深刻な労資の社会問題を扱い、次に書かれた『ルース』は、娘の頃にあやまちを犯して私生児を産んだ少女の道徳問題を、三番目の『クランフォード』ではある田舎町に住む悪を知らない婦人たちの静かでほほえましい生活絵巻を、第四番目の『北と南』では再び労資の問題ではあるが全然前作とは反対の観点からあつかい、第五作『シルヴィアの恋人たち』では新しい分野の歴史小説に目を向けて十8世紀に事実行われた強制的に徴兵されて海につれて行かれた人々をめぐる悲劇を描いている。
 さらに最後の作品となって未完のまま残された『妻たちと娘たち』では、純粋な家庭小説を描いているのである。以上のそれぞれ全然主題の異なった6篇の長篇小説の他にも、イギリスの伝記作品の中で随一の地位を占める『シャーロット・ブロンテの生涯』においては彼女の書いた6篇の長篇小説と必然的に全く異なった分野にのり出しているのである。
 近代の一流文芸批評家エドマンド・ゴス氏は「彼女は様々な小説を書きすぎた」と称しているが、果たしてギャスケル夫人は文学的野心にのみ駆られて安易に多方面の作品を手がけたと言い得るだろうか?実際は文学的野心などは全然もち合せていなかったギャスケル夫人は、どの作品もやむにやまれぬ人聞愛のほとばしりによって書いたのであった。「苦しむ人間に対する同情心」が、彼女に筆をとらせたのであった。ますギャスケル夫人は外部社会に目を向けた時、貧苦にあえぐ労働者の苦しみは彼女の愛情にみちた心をとらえ、彼らの苦しみを救うために彼らの代弁者となりたいという強い欲求にかられて筆をとるのである。また『ルース』においても罪をおかして苦しむ少女の悩みに世の人の同情的な目を向けさせたいという深い愛情から書かれている。『シャーロット・ブロンテの生涯』では、生前のシャーロットと親交の深かったギャスケル夫人のシャーロットに対するいいつくせぬほどの敬意と愛情が伝記を書く必然的な動因となっている。最後の二つの長篇では、文学的訓練を充分につんだ後のギャスケル夫人が創作力を思うままに働かせた作品といえるが、やはり人間の苦悩への共感−−深い人間的愛情が基調となってギャスケル夫人の作品の特殊性を決定している。
 善意こそエリザベス・ギャスケルの生命であった。
 1848年に処女作の『メアリ・バートン』が世に出ると一躍して名声があがり、名士の仲間入りをするのだが、彼女の名声が絶頂にある時でも終始謙虚で、飾り気のないごく当り前の家庭夫人としての印象を人々にあたえていた。『メアリ・バートン』のセンセイショナルな評判で当時もてはやされていた最中でも、彼女の友人の一人は「ギャスケル夫人は彼女の文学的勝利のことよりも彼女の飼っている牛や鶏、豚のことや、栽培していた野菜や果樹のことに誇りをもっていた。」2 と語っている。彼女のこの言葉をもたぬ小さな生きものに対する愛情こそ彼女の限りなく深い人間愛につながり、彼女の作家としての貴重な土壌になっているのではなかろうか。
 この善良な、気どらぬ家庭夫人であったエリザベス・クレグホーン・ギャスケル (Elizabeth Cleghorn Gaskell) は1810年ロンドンのテムズ河畔のチェルシーにあるチェイニ・ウォーク通りに面した家に誕生した。正面にバターシー橋がながめられ、テムズ河を通り一つへだてて目の前にのぞむこの家には現在、「エリザベス・ギャスケル夫人1810年ここに生る」という青い色の標識が入口の扉の上にはりつけてあるが、事実エリザベス・ギャスケルは、この家では赤んぼうの時一年間育っただけであった。八番目の末娘として生れたエリザベスをのこして母親のエリザベス・スティヴンスン夫人はこの世を去った。ロンドンのチェルシーは、カーライル始めジョージ・エリオット、クリスティナ・ロゼッティなど多くの文学者が住んだ場所として有名であるが、ギャスケル夫人にとってはこの世に生をうけた最初の一年のはかない縁をもつだけであった。
 父親のウイリアム・スティヴンスン氏は元来は牧師であったが、後に度々職を変えた数奇な運命をもった人だった。反英国国教派に属した彼は、1797年にチェシアのサンドルブリッジに長く住んでいたホランド家のエリザベス・ホランドと結婚した。その後、宗教的疑問をいだいて聖職を去り、友人と共同でイースト・ロディアンで科学的農業を始める。この仕事は失敗に終り、しばらくの間はジャーナリストとして雑誌に寄稿していたが、2年後友人のすすめで大蔵省の記録係りとしての職についてロンドンヘ出てくるのである。ここで末娘のエリザベスが1810年9月2十9日に生れた。
 生後わずか一年で母親の死に会った赤んぼのエリザベスは、チェシアのナッツフォード (Knutsford) に住む亡くなった母親の義妹ハンナ・ラム夫人のもとへおくられる。小説[メアリ・バートン]の中の感動的な一場面に生れたばかりの赤んぼうがやさしいジョブ・リー老人の手で馬車でロンドンからマンチェスターに運ばれる場面は、人間の善意によって一人の赤んぼうの生命がいたわりはぐくまれた彼女自身の経験を幻想的に描いたものであろう。ラム夫人は不幸にも夫が発狂して行方不明となり、足の悪い娘と二人で静かな田舎町のナッツフォードで平和な暮らしをしていた。エリザベスの娘時代を育てはぐくんだこの田舎町ナッツフォードは、後にギャスケル夫人の作品に度々懐古的にその舞台として登場し、世界的に有名な地名となるのである。『クランフォード』の生活絵巻も幼い頃経験したナッツフォードの古風な生活そのものであり、『従妹フィリス』『妻たちと娘たち』その他種々の作品の中でもナッツフォードの田舎の生活がなつかしげに再現されている。
 ラム夫人は自分の娘同様にエリザベスを愛し、近くに住む沢山のおじ、おばたちも暖かい心を彼女にそそいだ。とくにおじのピーター・ホランド医師は毎日のようにエリザベスをつれてあるき、娘時代は何の憂いもなく田舎の自然にかこまれて幸せな日々を送った。「日曜日には教会で礼拝し、日曜学校で教え、いとこたちと遊び、水車の流れをみつめ、とうもろこしのたて積みの中でまどろみ、昔の物語に耳を傾けながら育った」のである。3
 1825年エリザベスが十5歳の時、ラム夫人と縁つづきになるバイアリ夫人の経営するストラットフォード・オン・エイヴォンにあるエイヴォン・バンク学校へ行き、2年間そこに寄宿生活をして語学を学び、エチケットを身につけ、2年の後1827年にナッツフォードヘもどってくる。その直後、兄のスティヴンスンが海で遭難し行方不明になったという知らせで、このころはロンドンのボーモント街にうつっていた父のもとに呼ばれる。父はその頃キャサリン・トムスンという婦人と再婚して二人の子供ができていて、エリザベスと継母は折合いが悪く、ロンドンの父のもとを訪ねる日だけが彼女にとって平和なナッツフォードの生活を乱すものであった。
 しかし兄の行方不明の事件が父にひどいショックをあたえ、父は病いにたおれ、このためエリザベスは父のもとに同居するように呼びもどされる。1829年父の死亡までの2年間、継母と異母姉妹との生活の間の記憶はいたましいものとなって生涯彼女の心にのこり、この心の経験は最後の小説『妻たちと娘たち』の中で生々しく再現されることになる。エリザベスの父に対する深い愛情の絆は彼女自身の次の言葉にうかがわれる。「その冬は私たちの家庭にいろいろな事件が起きた。・・・父は心臓麻痺の発作から全然体の自由がきかなくなりました。・・・私のすべての関心は病室からの一喜一憂する知らせに向けられました。・・・私の希望、私の恐怖は一人の弱っている人間の体に集中していました−−私の愛するお父さん、私のもっとも愛するお父さんの体の上に」4
 父の死後、1829年の秋、ラム夫人のもとへ一旦帰るが、間もなく親戚の者たちの配慮でイギリス北東部の海港のある地、ニューキャッスル・オン・タインに行くことになる。その地にはエリザベスの亡くなった母親のいとこの一人が反英国国教会の著名な牧師ウイリアム・ターナーに嫁いでおり、妻を失い男やもめとなったターナー牧師は一人娘のアンとさびしい暮しをしていた。アンのコンパニオンとしてエリザベスは、ターナー牧師父娘のもとに共に生活することになる。ターナー牧師の慈悲深い性格などと共に、この時代の経験は後に書かれた小説『ルース』の中に鋭く観察されて、再現されている。
 この地で疫病、コレラが発生してエリザベスとアンは数ヶ月スコットランドのエディンバラヘやられる。その後、続いてターナーの長女ミセス・ロバーズを訪ねて二人はマンチェスターへ来るのである。ミセス・ロバーズの夫はマンチェスターのクロス・ストリートの非英国教会派の牧師で、有能な若い青年ウイリアム・ギャスケルを副牧師としておいていた。
 ウイリアム・ギャスケルは当時27歳の若年であったが、知的に多方面に優れ、学者であり、能弁家であり、教会での人望も高かった。マンチェスター・ニュー・カレッジでは英国史と英文学を講義し、ドイツ語学者としても優れており、ランカシャ方言の権威者でもあった。さらに讃美歌の作詞もあり、『ユニテアリアン・ヘラルド』誌 (Unitarian Herald) の編集者でもあった。背が高くて特色ある風貌、性格は真面目で深刻であったといわれるが、この前途有望な学識高いギャスケル氏が、才能にあふれ美しくしかも快活で活動的な22歳のエリザベス・スティヴンスンと恋をしたのは当然のなり行きと思える。
 ギャスケル氏の申込みに一番驚いたのは育て親のラム夫人で、エリザベスに手紙で、「お前のような上調子のそそっかしやさんに、あのような方が目をおつけになるとは」と書いたと言われている。娘同様にエリザベスを愛したラム夫人にとってはギャスケル氏のような評判高い青年がエリザベスに申込んだことに喜びを感じると共に、快活で陽気に育ったエリザベスが厳粛な牧師職をもつ人の妻として果たしてうまくつとめ得るかというとり越し苦労からくる危惧があったのであろう。しかしラム夫人の心配は無用のものであった。牧師の妻としての務めを完全に果したエリザベスは、さらに数々の文学作品を世におくり出すという輝かしい使命をも果たすことになるのである。
 二人は1832年8年30日にエリザベスの故郷といえるナッツフォードで結婚式をあげ、ミセス・ラムのところで結婚祝いの朝食の後、ウェールズのフェスティーニオグヘハネムーンに出発した。

処女作『メアリ・バートン』(マンチェスター物語)執筆まで (1832-1848)

 一ヶ月のハネムーンを終え、ちょうどエリザベスの誕生日にあたる9月29日にマンチェスターにもどって、ドーヴァー街での牧師の妻としての生活が始まる。日曜学校での教育、慈善事業の仕事、貧しい家庭の訪間などナッツフォードでもすでに経験してきた仕事が本格的に始まり、後年の数年の旅行を除いてはギャスケル夫人は生涯を、悩める都市マンチェスターで過すことになる。以後約10年間の彼女の生活は夫と教区の人々、家庭と次々に生れる子供たちに捧げられる。
 この当時の、初期のギャスケル夫人のポートレートをこの当時親交あつく生涯のつき合いとなるウィンクワース家の二人の娘たちの書いた『回想録』によって見ることにしよう。

初めにミセス・ギャスケルを知った時、彼女はまだ有名ではありませんでした。しかし知り合いになり始めた頃から私たちは彼女の才能にうたれ、いつも私たちは彼女こそ小説の書ける人、または何か世の中に貢献できる人だと語り合っていました。私たちは彼女を知れば知るほど、彼女を賞讃するようになりました。・・・彼女のすべての偉大な知的な賜−−即ち、敏捷で鋭い観察力、驚くべき暗記力、想像力のゆたかさ、巧妙な直感力、やさしいがしかしぴりっとするユーモア−−これらは同情心と感情によってあたためられ輝きをましていましたので、実際に彼女と一緒にいると、彼女のもつ才能の力よりも人間的魅力を感じてしまうのです。5
 またこの当時のエリザベス・ギャスケルの容貌について他の友人の描写を引用してみよう。
彼女の顔は非常に繊細な線をもち、特に立派な額をもった大変に印象深い顔立ちでした。髪の毛は黒く、眼ははしばみ色で(肖像画に見られるように青かったとも時に言われています)会話をしている時にはその眼はすばらしい輝きと生気とをおびていました。彼女の口もとはきっばりした表情をしていましたが、やさしくて殆んどいつも微笑をうかべていました。6
 また、彼女の話し方は「太陽に輝く澄んだ深い河の光りきらめくさざなみであり、急流のようであった」7 と感動をこめた表現で形容されており、いかに多くの、内部からあふれ出るものをもっていたかを想像することができる。
 この間の10年間に六人の子供が生れるが、一人は死産、もう一人は赤んぼうの時に亡くなる。彼女は四人の娘、メアリアン、フローレンス、ミータ、ジュリアの養育に追われる。虚弱だったギャスケル夫人は、三女ミータの出産を待ちながら始めて小さな詩作を試みた。
 これは「貧しい人々のスケッチ」(Sketches among the Poor) と題されて、『ブラックウッド』誌 (Blackwood's) 上に掲載された。この詩は夫のウィリアム・ギャスケルと合作で、テクニックは作詩法に通じていた夫が手がけ、内容はギャスケル夫人の考えで創り上げられたといわれる。
 月並で感傷的な詩ではあるが、後の大作『メアリ・バートン』の中の副登場人物の一人、アリスがこの詩の中ですでに形づくられている点で大変に興味深い。

彼女は丘を越えて
遠くはるかにさまよい歩く。
亡き妹とともにたのしく、
妹は草ふかき墓石の下に
すでにもうねむれるものを

And in her dreams she wander'd far and wide
Among the hills, her sister at her side --
That sister slept beneath a grassy tomb. . . . 8

というような稚拙ともいえる詩作であるが、『メアリ・バートン』に出てくる貧しい老婦人アリスの聖者のような清らかな姿、故郷に帰りたいと思いつづけながら友人のため犠牲になって、とうとうその願いを死の間際に昏睡状態の夢の中ではたす信心深いアリスという人物が、すでに『メアリ・バートン』が書かれる10年も前にギャスケル夫人の心の中では、実在の根拠をもつ幻影として浮んでいたのである。
 このことは37歳になって処女作を書いたギャスケル夫人が、その題材の一つを長いこと心の中であたため続けたという証拠を見せてくれるのである。
    ギャスケル夫人自身、「私はこの詩において、詩人クラブ (Crabbe) の詩の様式で書きましたが、真に美しい魂の世界を見たいという精神から書いたものです」と「貧しい人々のスケッチ」について述べている。9 19世紀女流作家研究の権威者のマージョリー・ボールド女史は、「この言葉こそギャスケル夫人が何をもとめていたかということの手がかりをあたえてくれる。」と言っているが、10 すでに最初に世に出た小さた詩「貧しい人々のスケッチ」から次々に書かれる彼女の全作品を通じて、ギャスケル夫人は人間生活の中に美の鉱脈を掘り下げ続けて行ったのである。
 この時代に行われたもう一つ忘れてならないギャスケル夫人の小さな文学的経験について、ふれておかなくてはならたい。
 1838年にギャスケル夫人は『文学的名所遍歴』という本を書いて有名になっていたウイリアム・ハウィット (William Howitt) 氏の作品を読んでふと思いつき、彼女がエイヴォン・スクールに行っていた頃訪ねた有名な遺跡、クロプトン・ハウス (Clopton House) をハウィット氏の次の作品に加えたらどうかとのアドヴァイスの手紙をそえて、彼にクロプトン・ハウスの珍らしい描写を書いた文章を送った。この文章は2年後『有名な遺跡を訪ねて』(Visits to Remarkable Places) というハウィット氏の書物の中に収録されている。この時ハウィット氏はギャスケル夫人の卓絶した表現力に感銘をうけて、未知の一家庭の主婦であった彼女に向って彼女自身も文筆家を志してはどうかという長い説得の手紙を出している。
 しかし、この時は、家庭的にも多忙を極めた牧師の妻として、文章を書くなどということは思いもよらぬ別世界の夢としてうつったに違いない。
 はからずも、3年後の1841年にギャスケル一家が大陸旅行に出かけた時、家族の者たちとライン河を上っている時にハウィット氏一家と出会うのである。この時ギャスケル夫人の非凡な才能を深く記憶にとめていたハウィット氏は再びギャスケル夫人に文学活動をするように熱心にすすめる。しかしこの時もギャスケル夫人には、主婦であって文学者になることはとても不可能なことと思われ、この説得は再び軽い微笑とともに聞き流されてしまったのである。
 夫の地位も次第に高まり、ミセス・ラムから遺産も入って一家はかなり生活にゆとりが出来て10年間住んでいたドーバー街の家からアッパー・ランフォード街へと移る。ここで待ちに待った息子が1844年10月に生れた。しかし1845年の夏に思い出のハネムーンの地ウェールズのフェスティーニオグヘ一家で出かけた時、幸せな思い出の地は不幸の思い出の地に変る悲劇がおきてしまった。猩紅熱にかかって幼い息子のウィリアムの生命が突然に奪われるのである。
 この思わぬ不幸にギャスケル夫人は生きる力も失いかけ、無気力状態は彼女自身の生命をも奪うかに思われた。
 後に作家生活に入ってから書かれた彼女の短篇のなかでの最高の作品とされている「異母兄弟」は、その愛し児を失った若い母の悲嘆のきわみの描写からはじまっている。「・・・そのかわいい青白い死顔をじっとみつめて座っていた。一滴の涙さえ流さずに。」わが子を永久の世界にはこび去る葬列が、雪の中を行くのを若い母は失心したように見送っており、乏しい葬列の人々がかえって来たときも、まだそのままの姿で、窓の外に目をそそいだままで座っていた。−−この情景は、彼女が一人息子を失った日から心に刻まれていた傷心の極みの痛ましい人間像のつつましい表現であろう。ギャスケル夫人は、この短篇を、一少年がその異父兄を語る形式で描いているが、母の悲劇を述べ、兄の心情風貌を語るこの少年もやはり夫人にとって失った一人息子の分身であると見ることもできよう。小さな兄は、父の異なる幼い弟を雪の荒野で助けて、弟の生命を守るために、自分は死の途を迫るのだが、その少年の無償の愛の高貴な姿は、ギャスケル夫人の厳しく繊細な表現によって心に迫る最高の文学となっている。失った一人息子へのギャスケル夫人のイメージは、かくも美しく貴く成長して永久の傑作として残されることになる。
 「才能は悲劇の中で磨きを加えられて、その本来の輝きを発揮してくる」と言われるが、悲劇の中で純粋に真の生命をみつめるもののみが、その天恵を授与され得るものであろう。
 一人息子を失った妻の絶望の姿を前にして、この危機を救うただ一つの手段として夫のウィリアムは妻のエリザベスに、小説を書いてみることをすすめてみた。この夫の説得は、ギャスケル夫人に救いの光となった。子供の死で嘆き悲しんでいた彼女の心が、彼女の周囲を取りまく限りなく深刻な悲劇に対する同情を見出して行ったのはごく自然のことであった。
 夫の助言によって、自分自身の生命を救うという努力が、一篇の小説の完成に心血をそそぐといういとたみにおいてなされることになる。息子の死は、一人の作家エリザベス・ギャスケルを誕生させた。2年の労苦の後、ギャスケル夫人の処女作『メアリ・バートン』は、1847年に完成された。

『メアリ・バートン』の意義

 1848年の『メアリ・バートン』の出現は、エリザベス・ギャスケルを世におくり出した点においても、英国文学界にとって記念すべき出来事である。
 『メアリ.バートン』は19世紀初期のマンチェスター工業都市の歴史の一断面である。「これほど貧富の差のはげしい都は世界中に類がない」といわれた宿命的悲劇をはらんだマンチェスター。
 この小説においてギャスケル夫人は、当時のマンチェスターの労働者たちの悲惨な生活を如実に描き出して世の人々の無情な眼をひらかせようとした。1830年代の北部英国では、本国での過剰生産とアメリカの経済不況が大量失業の事態を引きおこし、必然的に貧困、飢餓という絶望状態がつづいた。1837年から48年まで続く人民憲章運動 (Chartism) は陰謀暗殺などという陰惨な事件を次々と引きおこした。その騒動のるつぽであったマンチェスターの牧師の妻として、これらの労働者たちの苦しみを身近に感じて、彼女の心は痛みにうちふるえていたのである。

私は政治的経済学など何も知らないのです。また組合の理念などということも。私はただ真実に書こうとしただけです。11
とギャスケル夫人自身初版の序文で述べているが、彼女は語る機会をもたずに、たえず苦しみにおびやかされている労働者たちの代弁者となったのである。その真実性は現代においても幅広い読者層を引きつけている。この小説にとりあげられた社会現象は、時代を限らず、どこの国のどの社会にも起り得る現象なのではなかろうか。当時の印度でも共感を捲きおこしたという事実が残っているが、現代の我々の社会でもここにあつかわれている社会問題は決して時代おくれの問題となっていないばかりか、深刻さの程度は異なるとしても我々自身の身近な問題として提起されている。
 マージョリー・ボールド女史も労資の問題は現代の我々にとっても共通な問題であるとして次のように述べている。
これらの問題は現代の我々にとってもごく身近な問題である。しかしこれらの長い年月を振り返って見る時に、我々がその時代からあまり進歩していないことは実に驚くべき事実である。我々のあゆみがおそいのか、ギャスケル夫人がすでに時代をはるかに超えていたのかどちらかである。12
またギャスケル研究家として知られるA・B・ホプキンズ女史も「『メアリ・バートン』に扱われている社会問題は現代の社会にもまだ依然として展開されている」と指摘し、「もしギャスケル夫人が現代の世の中に生きているとしたら、現代では宗教や社会問題にかなり自由な傾向が見られるので、いわゆる進歩のいくつかの兆しに彼女はおどろきはするだろうが、あまりに似かよった周囲の状態に気安さを感ずるだろう。」と述べている。13
 これらの普遍的社会問題をあつかった点に加えて、ギャスケル夫人の人物描写の卓越さ、人間性の把握の精妙さなどの特質は彼女の英文学史上の地位における再評価を現代のわれわれにせまっているのである。

デビュー以後『シャーロット・ブロンテの生涯』執筆まで (1848-1855)

 『メアリ・バートン』の出現とともにギャスケル夫人は一躍して一流作家たちの仲間入りをすることになる。当時第一線に活躍していた作家たち、ディケンズやマライア・エッジワース、カーライルなどから賞讃の手紙をうけとり、彼女は英国の知的サークルの中でもクィーンのような存在として認められることになった。
 ディケンズは1850年に新しく発行した『ハウスホールド・ワーズ(日常の言葉)』誌 (Household Words) に寄稿してくれるようにギャスケル夫人に依頼した。以後数年間次々に『ハウスホールド・ワーズ』誌上に定期的に彼女の作品が載せられ、この雑誌は処女作執筆以後の彼女の文学的活躍の場となる。「リジー・リー」("Lizzie Leigh") その他「寺男の英雄」("The Sexton's Hero")「クリスマス物語と太陽」("Christmas Stories and Sunshine")「荒野の小屋」("The Moorland Cottage") などの優れた短篇作品が次々と発表された。中でも特筆すべきことは、後に1853年に『クランフォード』として一冊にまとめられたものが1851年から53年の間の『ハウスホールド・ワーズ』誌の中に短篇スケッチとして一章ずつ発表されて行ったことである。
 『クランフォード』は英文学史上ギャスケル夫人の唯一のクラシックに数えられる作品といわれる。騒乱にわきかえっていたマンチェスター物語と対照的に、何の事件も起らぬイギリスの平和な片田舎で、悪を知らず善意に満ちて生活する無垢な婦人たちの生活を表現したこの作品は、彼女が幼い時楽しく過したナッツフォードヘの懐古であり、また新しく起った工業都市の世界の中で抹殺されようとしている素朴な人間生活に対するノスタルジアでもある。
 この作品はイギリスの田舎に興味をよせた最初のイギリス小説といわれるが、彼女は自分の幼時の追憶の中にのみ生きている消え去った英国の昔の生活様式の中の、純粋な人間の精神面をこの作品の中で再現しようと試みたのである。英国の昔の生活様式の記録という意味では骨とう的価値をもつが、実はクランフォードの町は精神面では世界中のどの地に行っても見られる一つの普遍的世界なのである。『メアリ・バートン』の中の社会問題が人間の普遍的問題であると同様に、クランフォードの田舎町の人間たちの善意にみちた生活もまた地球のどの地域においても求められるべき永遠の真理なのである。
 ここでギャスケル夫人はなつかしい故郷のナッツフォードに帰ったように陽気にたのしく軽妙に筆を運んでいる。この牧歌的な小説に出てくる人々のどこか少しずつ風変りではあるが悪を知らない底ぬけの善良さは、この作品を永遠に人の心を打つ不減のものとしている。
 さて、この当時のギャスケル夫人の家庭生活を振り返ってみよう。
 1846年に末娘のジュリアが生れているから、『クランフォード』が世に出た時はジュリアはまだ7歳であり、上の娘たちもまだ幼なく母としての仕事も多忙であった。牧師の妻としての仕事、母親としての仕事をもちながら、生涯に6篇の長篇小説、一篇の伝記作品、30の短篇小説その他スケッチ風の随筆の数々と少数の詩を世にのこしたことは驚異に値する。
 彼女は自分の書斎など持つことはできなかった。「食堂のテーブルの上で、朝食の片づけられたあと、娘たちが皆でしゃべったり、計画したり、相談し合ったりして、とぶように元気よく出たり入ったりしている場所で書かれたのである。」14
 その間には大勢の家族のために食事のことで女中にあれこれ注意をあたえねばならず、彼女の大切にしていた果樹や植木のことで庭師と話し合わねばならたかった。勿論彼らの実際の監督も必要であったろうし、また絵を描いていた娘のミークはスケッチのアドバイスを聞きにしばしば母親の執筆中に邪魔をしにくるのだった。その他、女としての身だしたみとして衣服のつくろい、帽子のふちつけもしなくてはならず、その上、体の虚弱であったギャスケル夫人は始終もちまえの頭痛になやまされていたのだった。「とにかく生活のプライバシーは夢見ることもできなかった。」15 家庭的にも多忙を極め、牧師の妻として寸暇もないように見える生活の中でミセス・ギャスケルは次作『ルース』の執筆を続けていた。
 『メアリ・バートン』の次に出版された小説は『ルース』で『クランフォード』の出版と同じ1853年に世に出た。
 『ルース』は当時の社会の生み出した一つの悲劇に着目し、一人の少女ルースがあやまちから私生児を生んだということがらを主題としている。この作品は不運な娘に向けられる世の中の冷たい眼に対する憤慨とルースのような少女に対する限りないあわれみから書かれている。
 『ルース』に2年おくれて『北と南』という四番目の長篇が1855年に出版された。この小説はディケンズの主宰する『ハウスホールド・ワーズ』誌に1854年9月から1855年1月までにわたって掲載されたもので、ディケンス自身の『ハード・タイムズ』(Hard Times) も同時に同誌に掲載されていた。後に『北と南』はこの雑誌社からディケンズの手で単行本として出版された。
 ディズレイリーは資本家と労働者の世界を「二つの国」(two nations) と名づけたが、この小説においてギャスケル夫人は、両者の対立した世界を「北」と「南」という相入れない言葉で代表させている。処女作『メアリ.バートン』と同じに労資の問題を背景に再びマンチェスターの生活をとりあげたものである。前者『メアリ・バートン』では作者の同情が労働階級にばかり向けられたというので一部の資本家たちの憤りをかったが、この小説では彼らの非難を緩和するため、ギャスケル夫人は資本家側の努力に理解を見せて、公平でありたいと懸命につとめる若い雇主のジョン・ソーントン (John Thornton) を主人公においている。
 この小説の意図は夫、ウイリアム・ギャスケル牧師の教会に集まってくる多くの資本家たちの気持を多分に思い計ったことにあるとも考えられる。
 『北と南』は明らかに批評家の眼を身近に意識して書かれたものであるが、物語の筋は非常に巧みに仕組まれており、彼女の作品の中でもっとも良くバランスのとれたものであり、『メアリ・バートン』を書いた時のような過度の緊張感なしに楽な気持ちで書かれている。『北と南』はヴィクトリア朝の『高慢と偏見』であるとしばしば言われる。しかし、この小説は過去のものを思わせるより、この時代より先に現われるジョージ・エリオットらの作品に見られる感情の心理的紛糾をあつかったものに近いと思われる。男女の関係に見られる従来にないような複雑さをあつかった作品として、次の時代に出る作品の先駆的な要素をもつものとして注目されるのである。
 ちょうど『北と南』が出版された頃に、夫のウイリアム・ギャスケル氏は「ランカシァ州の方言について」という論文を書き、これは『メアリ・バートン』の第五版に付加された。
 『メアリ・バートン』の出版以来、ギャスケル夫人の交友範囲は広がり、ディケンズ、サッカレー、マライア・エッジワース、カーライル、ラスキンらの一流の文学者たちとのつき合いが始まっていた。アメリカの女流作家でビーチャー・ストウ夫人もその仲間の一人であった。これらの作家たちの家にしばしば招かれ、また彼らもマンチェスターのプリマス・グロウヴの彼女の家をおとずれた。美しくて、会話が巧みで生々と楽しい雰囲気をかもし出すギャスケル夫人の周囲に、これらの文人たちが集まってくるのは当然のことであった。彼女のすばらしい人柄の魅力に彼らは皆とりこになった。当時家から離れていた長女メアリアンに送られた手紙の一節に、彼女は典型的ないそがしい日々の有様を次のように陽気な筆致で書き送っている。

「カーライル夫妻が訪ねて来ることになって、その上ほかの来客もあるところへ、家族の半数が病気、そのうえ料理人は結婚するから暇をほしいという有様です。」16
 1850年ギャスケル夫人が新しく知己を得たレイディ・ケイ・シャトルワースから、彼女はレーク・ディストリクトにある美しいウィンダミア湖畔の邸に数日間の招待をうけた。この湖畔の家の滞在でギャスケル夫人は詩人アーノルドやワーズワース夫人、ラスキンなどと知合いになった。ことに、ここでシャーロット・ブロンテと初めて出会ったことは、この二人の女流作家にとって、生涯忘れ得ぬ記念的出来事であった。ギャスケル夫人が40歳、ミス・ブロンテが34歳の時のことである。
 この時の出会いは未来の二人のより深い友情を予想することになる。ブロンテ嬢は翌年の1851年の正月にロンドンヘ行った帰途、週末にかけて、マンチェスターのプリマス・グロウヴにギャスケル夫人を訪ねている。
 その後1853年の4月に再び、ミス・ブロンテはマンチェスターを訪間し、その年の9月に今度はギャスケル夫人がハワースの牧師館にミス・ブロンテを訪ねている。この時の印象は数年後に書かれたギャスケル夫人の『シャーロット・ブロンテの生涯』に生々と描写されている。この季節には果しない荒野をおおうヘザーの紫の花は枯れて香りを失い、牧師館では孤独な沈黙がミス・ブロンテの生命と才能の残り火を窒息させていた。妹たちも弟も次々に亡くなり、(弟のブランウェルは1848年9月に、妹のエミリは同年12月に、アンは1849年5月に亡くなった。)牧師館には、67歳の父親と90歳近い女中のタビだけがおり、シャーロットもすでに30台の終りに近くなっていた。
 ギャスケル夫人の滞在した楽しい4日間はまたたく間にすぎた。ギャスケル夫人は後に『シャーロット・ブロンテの生涯』の中で、この時のハワース訪間の印象を、単なる型にはまった伝記でなくて、実際にハワースで彼女が経験したことにもとづいて、生きたシャーロット・ブロンテ伝を描き出した。
 伝記出版と同時に作中の生存者たちの非難の嵐がおこるが、やがてそれもおさまると、『シャーロット・ブロンテの生涯』のもつ真価は不朽の名作として輝き出した。
 ブロンテ一家の極端な人間嫌い、真理に対する勇気、体質的ペシミズムなど、ギャスケル夫人の感情のあたたかさによって全篇にみなぎる悲哀の色調を通して強烈な印象をもって描かれている。「荒地の傍の墓の中へ一人ずつ静かに埋葬されていったハワース牧師館の早熟な子供たちを描いた悲哀より、もっと悲劇的で強烈な絵画は他に類を見ない。」とイボンヌ・フレンチ女史は述べている。
 イギリスの伝記文学の分野の中で『シャーロット・ブロンテの生涯』はクラシックとなっており、ボスウェルの『ジョンスン伝』、ロックハートの『スコット伝』と並び称せられ、シャーロットはこの伝記によって不朽の存在としての生命をあたえられている。

エリザベス・ギャスケルの成熟期 (1857-1865)

 『シャーロット・ブロンテの生涯』はシャーロット・ブロンテの作品を出版していたスミス・エルダー社から1857年2月初め出版されたが、その直後の2月の半ばにギャスケル夫人は二人の娘とキャサリン・ウィンクワースとともに英国を発って大陸旅行に出かけた。ギャスケル夫人は『ブロンテの生涯』がひきおこすかも知れぬ非難を予想して、それをのがれるためにこの旅行を計画したものと思われる。まずローマに到着したが、ローマは謝肉祭のまっさい中で、彫刻家のウィリアム・ウェトモア・ストーリの家の客となった。このストーリ家で終生の友情を保ったアメリカの青年批評家チャールズ・エリオット・ノートン氏 (Charles Eliot Norton) と出会うのである。
ストーリ一家とバルコニーへ出てカーニバルの見物をしていた時、ギャスケル夫人が色の切り紙を投げていると、下の群集の中からそれをうけとって、彼女の方を見上げている青年の顔に気がついた。その時「まあ何と魅力的た顔でしょう。」とギャスケル夫人が叫ぶと,誰かが「あれがチャールズ・ノートンですよ。」と知らせた。間もなくノートン氏はバルコニーに上って来て一行に加わり、そこで初めてギャスケル夫人に紹介されたというエピソードが語り伝えられている。チャールズ・ノートン氏はやはりユニテアリアン派の家庭の出で、当時30歳、若い批評家としてアメリカで活躍していたが、この時ちょうどヨーロッパ旅行中であった。この時以来ノートン氏はギャスケル夫人の最高の理解者となるのである。
 チャールズ・ノートン氏はこの時ギャスケル夫人の印象を詩人のA・H・クラフ氏 (Clough) にあてた手紙で次のようにに述べている。

この冬のもっとも楽しい事件は先月までローマにいたギャスケル夫人と知り合いになれたことです。彼女はもっとも善良な心のすべての要素をもった、大変魅力的な人です−−彼女自身が『クランフォード』の中の人物、または彼女の他の小説の中の一番善良な人々のような人柄で、他の人に希望や期待をもたせてくれるような人です。17
 また他の友人ジェイムズ・ラッセル・ロウェル氏 (James Russell Lowell) にも同じようなギャスケル夫人の素描を書き送っている。
私は日毎に彼女に向ってより深い愛情と尊敬とを感じています。彼女は彼女の小説の中の一番善良な人たちのようです。寛大でやさしく、同情心に満ち、思慮深い親切心とたのしいユーモア、すばやい理解力、極端な単純さと真実さなどにあふれ、また並々でない微妙さとひかえ目とに加えて、強固な主義と、目的と率直さをもっていますが、少数の女性にしか見られない性質と思います。
 ノートン氏の鋭敏な観察眼はまれに見る優れた個性を見ぬいて感動をうけていた。彼女の娘のミークがその手紙の一つで述べているように「二人は母の亡くなるまで終生もっとも真実で親しい友人となった」のである。18
 暗いマンチェスターをのがれて、太陽の都ローマに来たギャスケル夫人の数週間のローマ滞在は、彼女の生涯でもっとも幸せな時であったらしく、彼女はこの時の印象を後にストーリ氏にあてて次のように述べている。
あのローマでのすばらしい日々はとにかく、私の生涯の最高潮の時でした。私にはあの時のように幸せなことは二度と将来ないでしょう。また私はあの時ほど幸せだったことはあの時までなかったと思います。あの日々のことを考えると私の眼には涙が浮んできます。19
 『シャーロット・ブロンテの生涯』が出版されて後数年間はあまり作品を書いていない。『ブロンテの生涯』によって引きおこされた心痛がギャスケル夫人のもち前の楽観主義に用心深さをあたえたのであろうか?この頃から前述の旅行にひきつづいて度々大陸への旅行が行われた。単に楽しみのためでなく、実際にはこの頃からギャスケル夫人の健康は害われ、マンチェスターの冬のきびしさがたえがたくなっており、その苦痛からのがれるために余儀なくマンチェスターをはなれることが多くなった。
 1858年にはハイデルベルクに3ヶ月、そのあとはパリのマダム・モルの所に滞在した。1859年には娘たちとフィットビの海岸へ出かけ、そこで次の長篇『シルヴィアの恋人たち』の材料があつめられた。また1862年にはノルマンディのあたりへ娘のミークや友人と出かけたりしたが、その間パリのマダム・モルの所へも訪問している。
 1858年から1864年までの間には中篇の『従妹フィリス』と長篇の『シルヴィアの恋人たち』その他に数々の短篇が雑誌に掲載された。『シャーロット・ブロンテの生涯』で人間の洞察力を一段と深めたミセス・ギャスケルは、晩年において卓抜な文学的テクニックを駆使して数々の不滅の名作を創り出した。
 晩年の代表的傑作短篇小説として『従妹フィリス』がある。
 『従妹フィリス』は芸術的に卓越した作品である。再び心の故郷のナッツフォードを背景としており、クランフォードと同じように田舎のムードに戻って行く。ここに完壁な宝玉と賞讃される作品が誕生したのである。
 1859年の終り頃から執筆され始めた『シルヴィァの恋人たち』は1863年に出版された。1859年10月のチャールズ・ノートン氏にあたえられたギャスケル夫人の手紙に、彼女はスミス・エルダー社から三巻本の小説を依頼されたと述べているが、この小説が『シルヴィァの恋人たち』の形をとって世に送り出されることになる。1855年に出た小説『北と南』を書いてから『シャーロット・ブロンテの生涯』と少数の短篇を書いただけであったギャスヶル夫人にとって、次に出版される長篇小説は文壇からも注目される重大な意義をもつものとなった。『コーンヒル』誌の編集者フレドリック・グリーンウッド氏は「ギャスケル夫人の最後の二つの長篇小説『シルヴィァの恋人たち』と『妻たちと娘たち』とでギャスヶル夫人は作家として新しい領域に入ってきた」と讃辞を述べているが、これら二作は前作のいずれよりもスケールも大きく、より深く人間性の複雑さを追求した傑作である。
 『シルヴィァの恋人たち』は、ふたたび歴史に主題が求められた。1790年代のナポレオン戦争の時代に、英国のフィットビの海岸の人々に恐怖をあたえた強制徴兵隊 (Press gang) をモデルにしたものである。
 『シルヴィァの恋人たち』では前作に見られないような人聞の感情の内的な紛糾、主人公たちの精神的葛藤が渦となって読者の心に迫ってくる。『シルヴィァの恋人たち』20 は今まで書いたこともないほど悲しい物語だとギャスケル夫人自身言っており、現代英国の辞書編集者のリデル氏 (Liddel) はこの小説はその迫力においてギリシャ悲劇に匹敵すると述べている。
 愛と嫉妬、憎悪、復讐、そして最後には寛容さをあっかったこの小説において、ギャスケル夫人は彼女のどの作品よりも烈しく情熱ととりくみ、人間の永遠の内部の問題にきりこんでいっている。
 『シルヴィアの恋人たち』に対してスミス・エルダー社のジョージ・スミス氏は1,000ポンドの稿料を出した。スミス氏はさらに1864年に7年契約で次に書かれる作品に対して2,000ポンドを前もって支払った。この契約のもとで、ギャスケル夫人のもう一つの、そしてもっとも優れた作品、『妻たちと娘たち』が書き始められたのである。
 1864年に三人の娘をつれて大陸旅行に出かけた際、数週間滞在したスイスやフローレンスまたは彼女の愛したローマやパリで『妻たちと娘たち』の構想が考えられ、そして故国をはなれたこの楽しい旅先のきままな雰囲気の中でこの小説は書き始められた。
 この作品でギャスケル夫人は初めて彼女自身のことを書いた。初めて宗教的興味からはなれ、社会問題からも歴史からもはなれて、どのような社会問題にも関係なく、ただ一筋に、複雑にそして巧妙に織りだされた恋愛物語を書いたのである。この作品は入りくんだ筋の動きなど技術的にもすぐれていて、ジェイン・オースティンの作品に匹敵するといわれる第一流の家庭小説となっている。
 『妻たちと娘たち』の中の女主人公モリー・ギブスンと彼女の継母との関係には、ギャスケル夫人がロンドンの父の家で経験したつらい思い出からくる自伝的要素が見られる。この作品について特筆すべきことは、英国小説の研究家ミリアム・アロット女史が指摘しているように、悪魔的要素が初めて加えられていることである。ギャスケル夫人はモリーの継母ギブスン夫人を諷刺的に描くことに非常な興味をもっていたのである。即ち美しいが不正直で我儘なギブスン夫人は、『妻たちと娘たち』の中で他のどの人物よりも鮮明な印象をもって描かれている。
 『妻たちと娘たち』においてギャスケル夫人は、初めて自分自身の経験を想像の中に燃焼させた作品を書いた。この家庭小説において、ついに彼女はゆるぎない傑作を生み、一流作家たちと肩をならべる確固とした地位をきずき上げた。
 まだこの作品を執筆中の1864年の秋にギャスケル夫人は病いにたおれ、3ヶ月静養した後一時恢復して、翌年1865年にもう一度パリのマダム・モルを訪問することができた。しかしこの頃ギャスケル夫人の健康はかなり犯されていたらしく、1865年9月長女のメアリアンにあたえた手紙の最後に「ああ私はすっかり疲れはてました!」という文句が書かれている。
 この頃黒ずんだ空しかないマンチェスターは健康のすぐれないギャスケル夫人にとっては安住の地ではなく、遠い外国へ行くこともあまり健康が許さない状態から、イギリスの南部の明るい地方に休養の場所をもちたいという希望がおきてきた。ジェイン・オースティンが住んでいたハンプシァ州のオールトンの近くのホリボーン (Holyboune) に4エーカーもある別荘を買いもとめた。この費用は2,600ポンドであったが、『妻たちと娘たち』の稿料がこれにあてられ、不足の600ポンドはスミス・エルダー社によって支払われた。ノートン氏へのギャスケル夫人の手紙によると「退職後の夫のギャスケル氏と、結婚していない娘たちのためにこの邸を買った」ということである。
 1865年秋には『妻たちと娘たち』は殆んど完成に近くまできていた。1865年11月12目日曜日この小説は未完のまま、まったく予期しない「終結」をむかえてしまうのである。この日、娘たち二人と娘むことホリボーンの新しく買われた別荘に来ていた。ミータとロンドンであわただしく買いもとめられた家具で家の中も次第に落着き、4エーカーもある庭には一面緑の芝生がはてしなくつづくかに見え、まだ葉のおちきらぬ木立は奥深い森を思わせ、野生の花も咲き乱れていた。
 客間から眺められるこの広々とした庭は、マンチェスターの都会の空気とはすっかり違って、ギャスケル夫人がいつも心の底に故郷として大切にしていたナッツフォードの自然の憩いを思わせるようであった。そこでの午後のひととき、客間で皆でお茶を飲んでいる幸せの最中に、やさしく美しい彼女の話声が急にとまったかと思うと、彼女は前にかがみこみそのままもはや答えなかった。永久に−−この瞬間にすべてが終っていたのである。シャーロットの親友エレン・ナシーへの娘のミータの手紙によれば、まったく突然に、一瞬の警告もなく皆と話をしている最中に、彼女は前に倒れ、そして死んでいたのだった。
 数日後、彼女はナッツフォードのユニテアリアン教会に埋葬された。翌年の1866年に彼女を不朽の大作家の列に加えさせた傑作『妻たちと娘たち』は、『コーンヒル』誌の編集者フレドリック・グリーンウッド氏の手でギャスケル夫人の娘たちから彼女の構想の知識を得て完結され、出版されたのであった。

(注)

David Cecil: Early Victorian Novelists, p. 20.
Miriam Allott: Elizabeth Gaskell, p. 7.
Yvonne Ffrench: Mrs. Gaskell, p. 10.
A. Stanton Whitfield: Mrs. Gaskell, p. 10.
Op. cit., Y. Ffrench. p. 12.
A. B. Hopkin: Elizabeth Gashell, Her Life and Work, p. 312.
Ibid.
Op. cit., Y. Ffrench. p. 17.
Marjory Bald: Women-Writers of the Nineteenth Century, p. 160.
Op. cit., Y. Ffrench. p. 26.
The Works of Mrs. Gaskell ed. by A. W. Ward, Vol. I, p. lxxix.
Op. cit., M. Bald. p. 148.
Op. cit., A. B. Hopkins. p. 332.
Op. cit., M. Allott. p. 49.
Op. cit., Y. Ffrench. p. 50.
Op. cit., M. Allott. p. 13.
Op. cit., A. Stanton Whitfield. p. 59.
Ibid., p. 58.
Ibid., p. 57.
Sylvia's Lovers: Introduction, p. vi.

* 出典:山脇百合子『ギャスケル研究』(北星堂書店、1976)pp. 15-42.「第一編第一章:エリザベス・ギャスケルの生涯と作品」の転載を日本ギャスケル協会に快諾してくださいました山脇百合子先生に感謝いたします。

* 電子化:松岡光治


© The Gaskell Society of Japan
All rights reserved.