ジェンダー史学会第4回年次大会プログラム



ジェンダー史学会第4回年次大会プログラム

 

日時 122日(日)

場所 東京女子大学(東京都杉並区善福寺)

http://www.twcu.ac.jp/

大会参加費:一般参加1500円、会員1000

                      学生・院生(会員・一般参加共通)500

茶話会参加費:一般参加者、会員、学生・院生1000

                 

     自由論題

部会A 司会および進行(井野瀬久美恵) 9203教室

10001040 川島慶子「科学アカデミーと女性デュ・シャトレ夫人の『火の論文』再出版に見る」

10401120 富田裕子「英国におけるパンクハーストの婦人参政権運動」

11201200 嶺山敦子「戦前における久布白落実の性教育論をめぐって」

 

  部会B 司会および進行(小玉亮子) 9105教室

     10001040 久保田善丈「アジア主義的マスキュリニティとアジア―“列伝中の人物の作られ方」

     10401120 小山有子「服装史とジェンダー村上信彦『服装の歴史』再考

 

  部会C 司会および進行(高橋裕子) 9204教室

     10001040 上野裕子「大正から昭和初めにかけての俳句界における女性俳人の進出について」

     10401120 國原美佐子「戦後教育改革と女子大学」

 

  部会D 司会および進行(田丸理砂) 9202教室

     10001040 金井佐和子「トルコ都市部における「有償」家事労働に関する一考察」

     10401120 アンヤ・オシアンダ「ウーマンリブ文化史」

     11201200 福田敬子「19世紀アメリカの『性』と『出産』:『フリーラブ』運                     動に見るその理論と変遷」

 

○ 総会 13001400 9103教室

 

○ シンポジウム 14:151700 9103教室

 テーマ「出産のジェンダーポリティクス」

 司会 服藤早苗

 シンポジスト

・小嶋菜温子「王朝文学にみる家と子ども」

・長谷川まゆ帆「17世紀にコタンタンで生むこと/生ませること――モケ・ド・ラ・モットの手技をめぐって」

・鈴木七美「アメリカにおける出産の歴史的変容とヘルス・リフォーム運動――『女性の領域』と新たな生活文化の創造」

コメント 小浜正子

 

     茶話会 17:301830 ライシャワー館

 

     なお、会場近辺に食事場所がほとんどありませんので、昼食を持参くださるようお願いします。


自由論題発表要旨

 

部会A

川島慶子:科学アカデミーと女性―デュ・シャトレ夫人の『火の論文』再出版     に見るジェンダー問題

 

デュ・シャトレ侯爵夫人は科学史上ではニュートンの『プリンキピア』仏訳者として知られている18世紀フランスの科学啓蒙家である。そのことから、彼女は一般にニュートン科学の普及に力を尽くした人物としてのみとらえられがちだが、事態はそう単純ではない。本発表では、デュ・シャトレ夫人が『プリンキピア』の翻訳計画を温めていた時期である1744年に、本人によって再出版された『火の論文』の分析を通して、彼女にとっての科学啓蒙と、当時のフランスにおいて最大にして最高レベルの科学研究機関兼科学啓蒙組織であったパリ科学アカデミーとの関係について考察する。

というのも、この本に収録されている二つの科学論文「火の論文」と「シャトレ=メラン往復書簡」は、いずれも科学アカデミーと深い関係があり、しかもニュートン啓蒙とは別の視点から書かれている論文だからである。前者はアカデミーが1738年に主催した懸賞に応募して次点となり、女性の科学論文としてははじめてアカデミーの雑誌に印刷された論文である。後者は、彼女が書いたオリジナルな科学啓蒙書である『物理学教程』(1740)が原因で、アカデミー会員との間に起きた論争を収録したものである。じつにデュ・シャトレ夫人はこの双方において、当時のアカデミーで主流であった学説に挑戦しており、特にアカデミーの事実上の長であった常任書記メランの説に真っ向から反対している。つまり1744年のこの本は、観客としてではなく、真の論客として科学に参加した一女性が、当時の科学界の最高権威に挑んだ戦いの記録なのである。

当然ながら、このようなデュ・シャトレ夫人の態度は彼女の周囲の男性知識人たちの間に波紋を生むことになる。彼女の恋人でメランの友人でもあったフィロゾーフのヴォルテールはきわどい立場に立たされた。だいいち彼は早い時期からニュートン科学を理性の象徴として宣伝し、旧制度と対抗していたのだ。自身のニュートン啓蒙の成功のためにも、二人の恋愛を美化するためにも、ヴォルテールは恋人の意図を歪めてまでも彼女の死後にこの才女をニュートン啓蒙の女神にしたてあげようとする。本発表では、当時の科学アカデミーが女性に対して示していたジェンダーに関係する二面性が、デュ・シャトレ夫人のような科学にたずさわる女性知識人に及ぼした複雑な影響のみならず、同時代の男性知識人やその後の男性研究者による女性のテクストの「改ざん」、またはジェンダー・バイアスのかかった「解釈」という観点からも、デュ・シャトレ夫人による『火の論文』再出版問題を考察するものである。

 

富田裕子:英国におけるパンクハーストの婦人参政権運動

 

 今回の発表では、英国の婦人参政権運動において大きな業績を残した女性社会政治同盟(Women’s Social and Political Union、以下略してWSPU)とその設立者エメリン・パンクハースト(Emmeline Pankhurst)に焦点をあて、同盟の設立から解散に至るまでの経過を当時の時代背景を考慮しながら詳しく分析してみたい。また同盟の活動の成果、社会に与えた影響についてもあわせて論じてみたい。

 WSPUとエメリン・パンクハーストについての研究は、英国、米国、オーストラリアにおいて長年盛んに行われてきている。21世紀に入ってからは2003年にWSPUの誕生100周年を祝う`The Suffragette and Women’s History’というタイトルの国際会議がJune Purvisにより英国のポーツマス大学で開催された。またMartin Pugh のThe Pankhursts やJune Purvisの Emmeline Pankhurst のような著者の長年にわたる一次資料に基づく極めて内容の濃い研究書も出版された。2005年のWomen’s History Review (『女性史評論』)ではパンクハーストの婦人参政権運動に焦点をあてた特集号が組まれたりして、WSPUとパンクハーストに関する研究が更に注目を集めてきている。

 しかし残念ながら日本においては英国婦人参政権運動の研究は進んでおらず、今井けい著『イギリス女性運動史』、河村貞枝著『イギリス近代フェミニズム運動の歴史像』、河村貞枝、今井けい編『イギリス近現代女性史研究入門』の中でWSPUとパンクハーストの運動が簡単に紹介されているにすぎない。

 今回の私の発表ではパンクハーストやWSPU関係者の自叙伝、WSPUの活動を報じる当時の新聞記事、WSPUのポスター、ちらし、機関誌などの一次資料に基づき、当時のWSPUのデモや投獄された際の写真などビジュアルな資料も用いながら、WSPUの活動を具体的に紹介していきたい。

 WSPUは1903年にエメリン・パンクハーストによりマンチェスターに設立された婦人参政権の組織であった。設立当初は労働者階級の女性を対象としていたが、1906年にロンドンに活動の拠点を移してからは中産階級の女性を対象にした運動へと変わっていった。WSPUが掲げた第一目標は「男性と同じ資格を持つ女性に選挙権を!」という極めて限定されたものであった。フォーセット夫人の率いる婦人参政権全国協会は従来どおり法律を順守し、穏健な婦人参政権運動を展開した。しかしパンクハーストは従来のデモのような合法的手段を順守した運動方式では彼女らの目標は達成されないことを痛感し、過激な戦術に訴えるようになる。たとえば政府関係の建物の窓を壊したり、首相官邸の鉄柵に鎖で体を縛りつけたり、放火したりした。その結果多くのWSPUの会員は投獄された。投獄者の中にはハンストを行う者も出てきて、政府はこれに対して「食餌強制」をもって対抗した。WSPUのこのような過激な行動は当時沈滞していた婦人参政権運動に新たな活力を与えることに成功した。

 今回の発表では過激な行動を具体的に説明し、政府がこれらの行動に対して取った手段(The Cat and Mouse Actの制定)についても論じたいと思う。更にWSPUが成し遂げた業績や内部紛争などの問題点もフォーセット夫人の婦人参政権協会全国協会と比較しながら分析したい。最後にWSPUが英国社会に与えたインパクト、また海外(米国、日本など)の国々の婦人参政権運動に与えた影響についても考察できればと思う。

 

嶺山敦子:戦前における久布白落実の性教育論をめぐって

 

 久布白落実(1882-1972)は、日本キリスト教婦人矯風会における廃娼運動の中心的人物として有名である。『廃娼ひとすじ』(1973)という自伝も出しており、廃娼運動家として捉えられることの多い久布白であるが、その生涯の活動において、性教育というのは非常に重要な位置を占めるものであったと思われる。久布白自身、早いうちから、すなわち、本格的に矯風会で活動を始める以前から、性教育に関心を持っていた。当時の矯風会会頭の矢嶋楫子に付き添って、ボストン開催の第7回世界矯風会の大会(1906年)に参加した経験から、性教育の必要性を感じていた。そして、矯風会の活動を始めてからは、廃娼運動の対策として性教育の重要性を訴えていた経緯がある。それゆえに、久布白の廃娼運動と性教育は不即不離の関係であると言える。

久布白の性教育論は特に従来あまり取り上げられることはなかったが、久布白を中心として、矯風会の性教育について取り上げた先行研究(小田切明徳 (2005) 「キリスト教婦人矯風会と性教育−久布白落実らの大正・昭和前期の活動を中心にして」『キリスト教社会問題研究』54,1-24)がある。それにおいては、その純潔路線に対する批判がなされているものの、久布白の性教育の啓発活動の水準は高いもので欧米の研究者と比較しても遜色はないと評価されている。久布白の性教育論は、幼年期から老年期までの生涯教育としての性教育であった。このことは現代にも十分通じると思われる。第3回研究旅行(1935年) の成果として、久布白が矯風会の機関紙『婦人新報』(1937年)に連載しているもの(「我が国に於ける性教育(一)〜(六)」)等から読み取ることができる。性教育が家庭の中でも、学校教育の中でも、あまり語られず、また、語られたとしても、青年期の性道徳などが中心であった戦前の時代においては、先駆的な視点を提示していたと考えられる。こうした点からも、現代においても、久布白の性教育に対する考えを見直すのは意義深いことと言えるのではないだろうか。さらに、久布白の性教育は、生物学的な知識を重視する科学的な性教育と精神的・道徳的な概念である「純潔」の両方を重んじるものであった。特に現代日本社会においては、「純潔」という言葉の響きから、その性教育の中身について詳しく知る以前に、それは保守的な性教育であまり良くないと先入観を持って見られることがある。しかし、『婦人新報』等の記事を分析していくと、久布白の言う「純潔」というのはそのような保守的な意味だけでは捉えきることが出来ないものであると思われる。当時の性の規範は、男性に対しては甘いが、女性に対しては厳しいものであった。女性は純潔・貞操・良妻賢母たること、また、母としての責任などが要求されることが多かった。そういった中で、久布白は、男女平等の「純潔」を主張しており、従来とは異なった見方がうかがえる。

今回の発表は、久布白の生涯における性教育論の全体像を明らかにしていく第一歩として、1930年代の『婦人新報』における久布白の論稿を中心として、戦時体制に入る以前の久布白の性教育論について明らかにしていくことを目的としたものである。

 

 

部会B

久保田善丈アジア主義的マスキュリニティ”とアジア―“列伝中の人物”の   

      作られ方

 

「アジア主義者」の誰かが「東洋的豪傑」であったとしても驚く人はいないだろう。しかし思い切っていってしまえば、「アジア主義者」は「東洋的豪傑」だったのではないし、「東洋的豪傑」が「アジア主義者」になるのでもない。「アジア主義者」は「東洋的豪傑」でなければならなかったのであり、だからそのように語られたという可能性が高い。そもそも「アジア主義」は、「アジア主義とは何か」という問いかけ、語りのなかでたえまなく構成されつづけている、と考えたほうがよいということだ。この論考ではこういった可能性を黒龍会編『東亜先覚志士記伝』(上中下、1933−36)「列伝」に見出していくことになるが、例えば、中国を語る、中国に行く、偵察する、酒を飲む、暴れる、戦う、死ぬ・・・といった「列伝」を彩るこれらの行為は、それ自体に意味があるわけではない。問題はそれをどのように語るかということであって、この意味で「列伝」は、そのエクリチュールによって「アジア主義的な世界」を構成してきたと考えることができる。また、「列伝」のそのようなやり方を通じて構成される世界は「アジア主義的マスキュリニティ」を互いに認め合った男たちのホモソーシャルな世界でもあるといえそうだ。とすると、その絆は「男らしくない誰か」の存在をテコに確認されることになるだろう。こうして連帯相手であるはずのアジアは、日本人「アジア主義者」たちの「男らしさ」に根拠を与える存在として語られていくのである。

基本的には近代の「アジア主義者」たちについて、そのマスキュリニティや矜持のあり方をあげつらうつもりはない。彼らの多くは彼らの時代においてある意味では疎外されていたと考えられるし、その特異なあり方はその疎外が構成していたという可能性を無視できないからだ。そしてそのある部分は悲劇的な最期をむかえ、またある部分は悲劇的な状況をアジア各地に引き起こしていったのだ。ただし、そのマスキュリニティ、ホモソーシャリティが作り上げられたものであるということは強調しておきたい。というのは、新自由主義的な流れのなかで進められようとしている「男らしさ」の再構成のあり方に「列伝」と同じようなやり方を見出すことは難しいことではないからだ。そしてそこで展開するのは、非男性性の疎外であり、悲劇的な結末を迎えるかもしれない物語へとさまざまな意味で資本を持たない人々を駆り立てるアジテーションだ。では「アジア主義的世界」から距離をとろうとする立場はどうか。そこで「アジア主義者」を他者化する人々はそれによって自身をどのような「わたし」として想像しているだろうか。例えばポリティカル・コレクトネスなポストコロニアル研究における連帯論からは、「アジア主義的マスキュリニティ」「アジア主義的エクリチュール」がきれいに排除されているが、そのような身振りは同時にある種の「命令」であり、それに応えるすべを持たない者たち―文化資本を持たない者たちを追い込んでゆくかもしれない。とすると、そのようなスタンスは、追い込まれた人々が「男らしさ」競争に参入していくことを批判することはできるのだろうか。このような問題についてはまだ十分な考察にいたっていないが、ここを突き詰めなければ現状に対応することはできないと考えている。

 

小山有子:服装史とジェンダー―村上信彦『服装の歴史』再考―

 

 村上信彦(1909〜1983)の女性史研究については、今までに多くの検討・考察がなされてきた。彼の歴史観について、あるいはその女性の描かれ方について。しかし、彼のもっとも初期の研究のひとつである服装史については、あまり多くの考察がなされていないのではないだろうか。もっとも彼自身の認識では、「今では完全なlife-workになってしまった衣服研究の副産物たる女性史研究」(村上信彦『女について 反時代的考察』こぶし文庫 1997年、初版の序p.9)としていることから、服装史についての言及が少ないことは彼にとっても非常に残念に思われることであろう。『女について』は1947年、『服装の歴史』は1955年が初版であり、1969年からの『明治女性史』よりもその完成はかなり早いものなのである。

 本発表では、その村上服装史を再考したい。とくに、彼が評価しているオットー・ヴァイニンガーとのかかわりを中心に考察する(前掲書ではワイニンゲルの表記)。興味深いことに、現代では反フェミニズム的要素が強いとされているヴァイニンガーを村上は評価しているのである。ヴァイニンガーについての「通俗的でまちがった印象にもとづい」た一般的解釈ではなく、彼を「女性の敵ではな」く「女らしさの敵〔傍点原文〕」だと指摘したのだろうか(前掲書pp. 93-4)。

 このことをより深く考えるために、具体例を服装へ移そう。村上は服装の区別として、洋装/キモノ、ズボン/スカートをそれぞれ男性/女性役割にあてはめつつ服装史から性差別の歴史を概観している。男性性には機能性が、女性性には装飾性がわりあてられ、その性役割が“美”あるいは“魅力”によって不当にゆがめられ正当化されてきた歴史を徹底的に検証している。おそらく村上にとってキモノやスカートは、ヴァイニンガーが呈示したような究極的な女概念とでも呼べるものを指し示しており、それらを手放すことによって(ズボンをはくことによって)、女性は服装がもつ性差別から自由になり、肉体がもたらす性差をも乗り越えることができるという。肉体によって分け隔てられた性差別は乗り越えられるが、しかし、女性の肉体が持つ、特有の“美しさ”は損なわれることなしに自由を手に入れることができる、というのが村上の主なる主張である。

 しかし、こうした村上服装史観についてはさまざまな疑問のあることも事実であり、それらの疑問も参照しながら村上の主張に再度立ち戻り、女性と服装についての考察を深めることを進めたい。本発表では以上の点をふまえて村上服装史に注目し、歴史観あるいは女性と服装の関係性を再検討するものである。その際、女性史での豊かな蓄積と照らし合わせることによって、村上服装史から引き継ぐべきものは何か、また乗り越えなくてはならないものとは何かを明らかにする。

 

 

部会C

上野裕子:大正から昭和初めにかけての俳句界における女性俳人の進出につい  

     て

 

 現代の俳句界において、女性俳人の活躍は非常にめざましいものがある。しかし江戸時代に俳句が室町俳諧から独立して後の俳句界においては、女性俳人は稀少な存在であった。このような女性俳人を多く輩出し、活躍の場が与えられるようになったきっかけは、大正5年(1916)の「ホトトギス」誌上における台所雑詠欄の登場にあった。当時ホトトギスの主宰であった高浜虚子は、女性に俳句を拡げるために台所にあるものを題材に俳句を作り、投稿できるように「ホトトギス」誌上に女性のみの台所雑詠欄を設けた。台所雑詠欄からは、阿部みどり女、杉田久女、長谷川かな女などの女性俳人を多く輩出した。

 この結果、これまで門戸を閉ざされていた女性にも活躍の場が与えられることとなり、以降数々の有能な女性俳人が生み出されることとなった。大正期から昭和初期は、まさに女性俳人の黎明期ともいえる時代であった。

 このような女性俳人の黎明期を支えた女性たちの中には、明確な自己を持ち、女性の自立を訴え、自らが先頭に立ち俳句界における女性の活躍の場を拡げていった人物が存在する。

 大正9(1920)年、「短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎(すてつちまをか)」という衝撃的な句が「ホトトギス」の巻頭を飾る。この大胆な句により彗星のごとく現れた人物が竹下しづの女である。

 これまでの女性俳人が台所雑詠の投句から「ホトトギス」への投句へと徐々に活躍の場を広げていったのに対し、しづの女は初の投句でいきなり巻頭句を掴み取った。

 竹下しづの女は本名を静迺(しずの)といい、明治20(1887)年、福岡県京都郡稗田村(現福岡県行橋市)に生まれた。福岡女子師範学校を卒業後京都郡久保尋常小学校、稗田尋常小学校の教諭を歴任している。当時自然の美しさを前面に出した「花鳥風詠」を良しとしていた俳句界において、自己の主張を強く打ち出した句を詠み、女性解放理論を唱え続けた。

 しづの女と同じく、教員として働いていた経験を持つ女性俳人として原コウ子がいる。原コウ子は本名を志賀コウといい、明治29(1896)年に大阪府貝恍ャ北町(現在の大阪府貝塚市北)に生まれた。女学校を卒業した後に母校である貝塚北尋常小学校の教員となる。コウ子と俳句の出会いは「ホトトギス」への投句からで、これを機に当時雑詠欄を担当していた原石鼎(せきてい)と知り合い結婚する。石鼎独立後に主宰を勤めた「鹿火屋」では誌上に婦人のみの俳句欄「花英集」、婦人の俳句会「立葉会」を設立する。まさに「ホトトギス」において高濱虚子が行った女性俳人の発掘作業を「鹿火屋」においてコウ子が担ったのである。コウ子の句にも、当時の「花鳥風詠」と異なった自己の主張および女性の自立が詠われている。

 二人の女性俳人に共通しているのは、教員として働く経験を持つことである。

本発表ではこの竹下しづの女と原コウ子という二人の女性俳人の俳句や評論などから、彼女たちがどのように女性の自立を訴え、当時の俳句界の風潮にない句を詠み続けたか、また、後進への指導と女性俳人の輩出に力を注いだかを比較分析する。そのうえで、当時の社会において女性教員としての経験が与えた彼女たちへの影響や彼女たちが実践した俳句における女性解放理論の進展を考えていく。

 

國原美佐子:戦後教育改革と女子大学

 

 本発表は、新制大学発足時の女子高等教育機関で、GHQの教育指令した教育改革がどのように進められ、在学生であった女子学生がこれらの改革をどのように受容したかを考察するものである。

 戦後日本の教育改革は、軍国主義的・超国家主義的教育を一掃し、日本の民主化を普く効果的に促進するためにGHQ内に設置されたCIE(民間情報教育部)主体でおこなわれたものである。とりわけ、1946年2月に発表された「女子教育刷新要綱」は女子高等教育受容希望者に新たな選択肢を与えることになった。つまり、男子のみに認められていた高等教育機関への受験許可である。これに伴い、同年4月には戦時中は門戸を閉ざしていた旧制大学が女子の受験を許可した。

 同年3月に来日したアメリカ人教育学者を主体とした使節団が「アメリカ教育使節団報告書」に記したように、初等、中等教育に対する積極的な改革に比べると高等教育は概ね既存の枠組の中での改革に留まる方向性が定まった。日本側の受け入れ委員会である教育家委員会(のちの教育刷新委員会)に属する各委員の人となりを通じ、戦前の旧制高校・大学には自由主義的理念が確認できたからだとも言われる。

 その中で、戦前から女子高等教育に携わってきた全国の旧制女子専門学校や女子高等師範学校もまた、その存在意義が認められ、1948年には新制大学への昇格が次々と認められた。これは、とりわけ私立の女子専門学校が、教育使節団およびCIEが目指すリベラルアーツ教育に基づいて教育を展開しようとする教育の理念をもちあわせていたこと、また、多くの場合、プロテスタント系キリスト教学校であったことによると考えられる。しかしながら、旧制大学の共学化はもちろん、新制大学発足によって、女子学生には単一性である女子のみの学校だけではなく、共学という新たな進学先の選択肢が与えられることになる。そのため、これまでの「女子の最高学府」という看板だけでは不足が生じた。当時の政治や社会の動向にダイレクトに反映しつつも、これまでの建学の理念を再度確認し、学生や社会一般に大学の社会的使命を伝えることで新制大学としての存在意義を訴えたのである。

 一方、学生は抑圧された学校生活から解放され、新憲法の保護のもとさまざまな場面における自由を求めるようになる。特に、言論の自由は高等教育受容者である女子学生たちにとっては魅力的な権利であった。一部の学生たちはその権利を「学生新聞」という場で発揮し、学内世論形成にも携わることになる。教育改革の中で、大学と学生とが理想の「大学」をどう構築していったのか、何の点において限界があったのか、学内広報誌や学生新聞を通じて追い、明らかにし、この時期の女子大学の存在意義を示したい。

 

 

部会D

金井佐和子:トルコ都市部における「有償」家事労働に関する一考察

 

本発表ではトルコの都市社会において日常的に行われている日雇いの家政婦業を取り上げ、家政婦業という一種の「有償」家事労働を「担う女性」としての都市低所得層の女性たちと、「与える女性」としての中層階層以上の女性たちを通して、トルコ社会のインフォーマル労働やジェンダー規範に基づく性別役割分業観、並びに都市社会の階層格差などを考察する。

都市に低所得層という一つの階層が形成されたのは1950年代、経済政策の変化とそれに伴う労働市場の変化の影響で急増した地方農村部からの都市への人口の流入を契機にしている。この結果、都市には地方農村からの移住者が急速に増加し、彼らはゲジェコンドゥという不法占拠居住地で暮らすようになる。彼らには公的な制度や社会保障も行き届かず都市の利便性からも隔離されていた。彼らのこの閉鎖的な暮らしを支えたのは、同郷・血縁をもとに築かれたネットワークであった。

この都市低所得層は保守的なイスラム教徒の多い地方や地方出身が多く占め、「女性が親族以外の男性と接触してはいけない」、「外で働くのは恥だ」といった厳しいジェンダー規範を女性に強いる場合もある。家庭はプライベートな領域であり、そこで行われる家事は女性の役割である、という性別役割分担の概念は強固に存在している。しかし、このジェンダー規範は程度の差こそあれ、社会階層のいかんを問わずトルコの女性の多くに一般的に受け入れられているジェンダー規範でもある。このジェンダー規範をインフォーマル労働という労働形態を通じて考えると次のように説明することもできる。

都市部で行われているインフォーマル労働は、日雇いの家政婦業や清掃婦、ベビーシッターといった「家事の延長」上でできると捉えられるもの、もしくは工場の下請け、孫請けといった最底辺の、出来高払いの部品組み立て作業、裁縫作業などである。前者は家事労働の範囲内とみなすことができるという点、また後者は家庭内でできる仕事として、厳しいジェンダー規範をもつ低所得層の人々にも受け入れられる女性の仕事である。夫の失業など経済的な理由、あるいは教育レベルが低くフォーマルな仕事には就けない、また、夫の抑圧から逃れるために経済力や発言力を持ちたい等、理由は様々だが低所得層の女性たちにとってはジェンダー規範にかなう、そして彼女たちでも就労可能な仕事はインフォーマル労働しか存在しない。しかし一方で、家事労働は女性の役割である、というジェンダー規範を守りたい中層階層の働く女性たちにとっても、自らが行うべき家事を自らの経済力で他人に代行させて自分のジェンダー役割を全うできる、という点で、一見インフォーマル労働に直接関係していない彼女たちとってもインフォーマル労働は不可欠なものなのである。さらに、「有償」の家事労働を通じて、両女性間には雇う女性と雇われる女性という上下関係が構築される。この上下関係は、経済力に基づいたいわゆる社会階層格差や、男女間の格差によって周縁化された低所得層女性にとっては、新たな劣等感を抱かせることになる一方で、低所得層の社会的セイフティネットとなっていた地縁・血縁をもとにしたネットワークを「雇い主」の女性にも見い出し、一種の親族のような感覚をもつようになることも観察されており、単に上下関係が築かれるだけではなく、新しい関係が構築されていることが確認される。

 

Anja Osiander:ウーマンリブ文化史

 

 1970年代のウーマンリブ運動は、歴史的には女性運動の「第二波」と呼ばれており、1910年代から20年代にかけての「第一波」と、1975年にメキシコ・シティで開かれた世界女性会議をきっかけに日本にも現れた「第三波」との間の運動と位置づけられている。しかし、1970年代のウーマンリブ運動の活動家たち自身は、自分たちの運動のこうした位置づけを常に拒否してきた。なぜなら、彼女たちは自分たちの運動を、いわゆる男女平等実現のための運動というよりも、「自己解放」をめざす運動とみなしてきたからである。本研究は、1970年代のウーマンリブ運動において、この自己解放という概念をいかに理解すべきかを具体的な分析の中心にすえている。

 研究概要としては、いわゆる「ヘテロトピア(異なる場所)」というメタファーを応用する。フーコーが作った新語で、これは一般の社会原則と根本的に異なり、普通の理論による存在が不可能な場所を意味している。一般の社会原則では不可能であるが、しかし確かに存在し、矛盾する場所としてある社会の裏側になる。本研究は、ウーマンリブ運動を1970年代日本の「異なる場所」として分析し、これまで調査されたものとは別の、もう一つのウーマンリブ運動の物語を提示することである。

 具体的な分析としては、ウーマンリブ運動の現場から始めるつもりである。ウーマンリブ運動の担い手はどのような現場に集まったのか、その現場はどのくらい広かったのか、その都度違った現場であったのか、どの程度組織されていたのか、また1970年代の文化主流、政治主流の現場からどのくらい離れていたのかなどを調査する。また、ウーマンリブ運動の現場では、どのような活動をおこなったのか。ウーマンリブの理想は自己解放のために新しい共同体を造ろうという活動であった。その共同体は伝統的な家族形態を否定し、また資本主義制度の中の職場とも違い、1970年代日本の政治的公共性とも違ったものをめざしていた。それは、具体的にどのように実現したのか。

 このような課題のために利用できる資料は少ない。雑誌『女エロス』、三冊の『資料集日本ウーマンリブ史』、それから田中美津の著書、秋山洋子、加納美記代の私史、それだけである。その中で、ウーマンリブ運動の現場(oder:場所)の話はほとんど出てこない。ウーマンリブ運動の中心は、書くことではなく、日常生活をできるだけ変革することにあったからである。そういう活動を今日又堀出すためには、聴き取りという方法をとる他ない。しかし、記憶を事実そのものとして取り扱うことはできない。どのように解釈するべきかは、歴史学の方法論を探ることになる。そのためには、色川大吉の民衆史から、1990年代の「歴史の物語論」、また鹿島徹の『可能性としての歴史』までを読み直し、考察することが必要だろう。そのほかにも、イタリアの女性歴史家ルイザ・パッセリニがもう一つ別のモデルを提示している。彼女は、精神分析学、私史と聴き取りをつなぎながら、イタリアのウーマンリブ運動を分析した。

 発表では、ここまで述べた問題意識をもとにして、来年一月から実行する聴き取り調査の準備状況を報告したいと思う。

 

福田敬子:19世紀アメリカの「性」と「出産」:「フリーラブ」運動に見るその理論の変遷

 

19世紀中葉のアメリカでは、個人を一生束縛する伝統的な結婚制度の改革を訴える声があがりはじめていた。その背景には、さまざまな情動に左右される人間を満足させる多様な制度を発展させるのが社会のあるべき理想の姿であるという、フーリエリズムの影響があったと考えられている。しかし、一夫一婦制を否定し、配偶者以外との性的関係を事実上認める「フリーラブ」思想があらわれると、家族制度の崩壊や道徳的堕落をもたらすものとして、一般社会の激しい反発を招くことになる。

一言で「フリーラブ」といっても、それを提唱する人びとの間には考え方の相違があった。「オナイダ・コミュニティー」を創設したジョン・ハンフリー・ノイズ(John Humphrey Noyes 1811-86)は、「フリーラブ」という言葉を初めて使った人物だといわれる。彼は、既存の結婚制度には反対したが、性行為は「聖なるもの」として推奨していた。しかし、性行為は結果的に女性に「出産」という「苦痛」を味あわせることになる。そこで、彼は「メイル・コンティナンス」と呼ばれる妊娠の危険を回避する性交法を考え出して、女性に「出産しない自由」を与えたのだった。妊娠の危険がないため、性交渉のたびにパートナーを交換することのできるこの「複合婚」と呼ばれるシステムは、当時結婚問題で悩んでいた多くの男女をひきつけたといわれる。

 一方、メアリー・ゴウヴ・ニコルズ(Mary Gove Nichols 1810-84)の「性」や「出産」に対する考え方は、ノイズのそれとはまったく違った。親戚の勧めを断れきれずに彼女が結婚した相手は、無知で嫉妬深くて生活力もない横暴な男だった。しかし、当時のアメリカでは妻には財産権も訴訟権も養育権もなかった。正式に離婚するまで大変な苦労をした彼女は、女性からすべての権利を奪う当時のこのような結婚制度を批判したため、「フリーラバー」と呼ばれるようになる。

ノイズは女性の「産まない権利」に配慮はしていたが、逆に女性の出産を管理する権利を持っているのは男性だと考えていて、「複合婚」の組み合わせを決めることができたのは組織の長老だけだった。また、「複合婚」の障害になるとして恋愛感情を危険視していた。

一方、ニコルズは、快楽を目的とする性行為は一切否定した。「心身の純潔」にこだわった彼女は、性交は生涯に数回子どもを産む目的のみに限定し、必ず愛し合った男女がすべきだと考えていた。健康改革運動にも取り組み、女性に「自分の体は自分で守る」ように訴えた彼女もまた「メムノーニア」というユートピア的コミュニティを建設している。

 どちらも「フリーラバー」と呼ばれながら、ノイズとニコルズの考え方がまったく違うという点も興味深いが、二人の出発点が同じであるという点も見逃せない。ノイズの妻は5回の出産のうち4回死産を経験しているし、ニコルズもまた、最初の夫に身を任せた結果4回流産と死産を繰り返していたのである。

「フリーラブ」運動は、この後ダーウィニズム、社会ダーウィニズム、優生学思想が広がるにつれて、さらに複雑な様相を呈していくことになる。

 この発表では、19世紀アメリカの「フリーラブ」運動とそれにかかわったさまざまな男女の言説をたどりながら、「性」と「出産」をめぐる人びとの意識の変遷の過程とその原因について考察していく。

 


シンポジウムテーマ「出産のジェンダーポリティクス」

 

司会 服藤早苗

シンポジスト

・小嶋菜温子「王朝文学にみる家と子ども」

・長谷川まゆ帆「17世紀にコタンタンで生むこと/生ませること――モケ・ド・ラ・モットの手技をめぐって」

・鈴木七美「アメリカにおける出産の歴史的変容とヘルス・リフォーム運動――『女性の領域』と新たな生活文化の創造」

コメント 小浜正子

 

シンポジウム趣旨説明

本シンポジウムは、出産という場における「産む性」としての女性たちと「産ませる性」としての男性たちのかかわりを通して、出産のジェンダー構造やその構築過程を歴史的に検証することにある。周知の通り、少子化は現在の日本の重大問題とされ、厚労省大臣による「女性は子どもを産む機械」「二人以上の子どもを持つのが健全」という発言がなされ、出産との関係では、「赤ちゃんポスト」や「代理母」などが話題となった。しかし相変わらず少子化に関する議論は、それがもたらす国家へのデメリットという角度からの議論が中心であり、出産についても、いかに少子化を回避しうるかという方向でしか議論がなされておらず、女性の身体への配慮はあまりにも少ない。近代的性役割分担強制を前提とするこうした議論をどのように乗り越えて行くかを具体的に考えることがいま必要である。本シンポジウムでは、時代・地域・研究領域を異にする3報告を受け、「生むこと/生ませること」とジェンダー権力構造とのかかわりについて考えたい。