所 一彦
川島先生に私淑し、その川島先生に認めていただいて研究室に残り、刑法の法社会学に取り組んだ経緯については先に書いた(「自分史のなかの川島先生」『川島武宜先生を偲ぶ』一九九四)ので、ここでは省く。
なぜ川島先生に私淑したか。私は小さいときから自然観察が好きで、学科も理科が好きだった。雨の日に傘をさして蜘蛛の巣を見ていたこともあるという。高校では実験室に入り浸りで、入試で「文〓」を選んだときには誰もがびっくりした。実はその少し前から社会現象に興味を持ち始めていた。自然を見ていた目を社会に向け始めたのだった。そのうちに社会の観察は自然の観察とは違う点があることに気がつき、一層興味が沸いた。たとえばジャンケンの相手が最初にグーを出す癖があるとする。パーを出せば勝つ筈であるが、ひょっとすると相手はその癖を読まれていることに気がついて、チョキを出すかもしれない。つまり観察されている当の相手もこちらを観察していて、こちらの予測を裏切る可能性がある。自然はもっと素直である。高等動物になれば裏をかこうすることもあるかもしれないが、こちらが読み負けることは滅多にない。
といった類のことを考えて面白がっていたのであるから、解釈法学は面白いわけがない。教養学部時代はサークルでマルクスを読んでいた。法学部を選んだのは、経済学では食えないと聞いたからで、つらいばかりの勉強がしばらく続いた。川島法社会学に出会ったのは、そういう時だった。自然を見る目で法現象を見る法学がそこにあった。
それからは法学が幾らか面白くなって、少し突っ込んだ勉強もするようになった。「科学としての法律学」の要素は、確かな研究論文には多少とも含まれているのがむしろ普通である。我妻先生の有名な『近代法における債権の優越的地位』や、尾高(朝雄)先生の『国家構造論』(岩波書店、一九三六)も面白く読んだ。尾高先生には教養の「法学」をならって、その時は全然面白くなかったので、それで特に印象的だったのかもしれない。そのうちに来栖先生の講義が家族法に入って、俄然面白くなった。テキストに指定された『民法特殊講義第二部講義案〓・〓』(発行年等不明)は、川島先生の『所有権法の理論』の家族法版のように思えた。
刑法では、どういうわけか、そういう論文にめぐり会わなかった。だから刑法の法社会学をやるんだと言ったのであるが、あとで団藤先生の『刑法の近代的展開』(弘文堂、一九四八)や平野(龍一)先生の「賍物罪の犯罪社会学的研究」(『法律時報』二〇巻七号)などがあったことを知って冷や汗を掻いた。刑法の法社会学は、日本では私が草分けのように言われることがあるが、そうではない。刑法の法社会学に専心した始めての例だっただけであろう。
とはいっても、やがて教えるようになったのは刑事学と刑法で、どちらも法社会学とは一部しか接点がない。刑事学・刑法・法社会学という三つの分野の狭間で、ともすれば引き裂かれそうになりながら、辛うじてアイデンティティーをつないできた。あちこちに書き散らした論文がやっと一冊にまとまったのは還暦近くになってからである。それも書名は『刑事政策の基礎理論』。内容からすれば『刑事政策の法社会学理論』でもいいかと思ったが、それでは売れる見込みが立たないらしかった。法社会学的関心から読んでもらえれば有り難いので、この場を借りて宣伝しておく。大成出版社、一九九四年である。川島先生御逝去の後になったのが残念だった。
法社会学は、私にとってはまぎれもなく「科学としての法律学」であり、それはとりも直さず自然観察の目を法現象に向けることであった。しかし最近になって、その「科学としての法律学」を金科玉条としてきたのは、ひょっとして間違いではななかったかと思うようになった。きっかけは学術会議で聞いた社会学の吉田民人中大教授(東大名誉教授)の説で、遺伝子がプログラムだというところから、世界は法則によって秩序づけられる層とプログラムによって秩序づけられる層との二層から成り、したがって科学も前者の層を解明する法則科学と、後者の層を解明するプログラム科学とにまず二大別されるという。人文・社会科学は、生物学とともにプログラム科学に属する。プログラムは法則と異なり、学習を経て変わる。だから或る程度共通ではあっても普遍的ではない(詳しくは拙稿「法則科学とプログラム科学」『犯罪と非行』一一一号)。
法学が科学として立ち遅れているように見えたのは、法則科学のパラダイムを当てはめたからである。そうでなく、改めてプログラム科学として法学を見直したらどうなるのであろうか。若ければやり直して見たいところである。
利谷 信義
私は一九五二年一〇月から、来栖三郎先生の民法一部を受講し、その冒頭の開講の辞にいたく感動した。まだ駒場キャンパスにいた大学二年生の冬学期のことである。
開講の辞と言えば、我妻栄先生の名著『近代法における債権の優越的地位』は、先生の債権法講義の開講の辞の発展であった。我妻先生は、開講の辞を述べることは牧野英一先生から教わったと言われたが(我妻栄、末川博、瀧川幸辰『法律学と私』、日本評論社、一九六七年、三三ページ)、来栖先生は我妻先生にならったのかもしれない。そこには、先生の講義にかける熱い思いが、ひしひしと伝わってきて迫力があった。
この開講の辞は、今から思うと、日本における法社会学の発達史の当時における総括であった。それは、戦前において穂積重遠、末弘厳太郎両先生が法社会学の研究に新生面を開かれたことにはじまり、戦後の戒能通孝、川島武宜両先生の活躍にまで及んでいた。
この講義の中で、私は末弘先生の『物権法』や『民法雑記帳』、川島先生の『日本社会の家族的構成』や『所有権法の理論』、戒能先生の『法廷技術』や『インテリゲンチャ』など数多くの書名に接し、またその先生方のエピソードを聞いて、まるで旧知のような親近感を覚えた。例えば、後年現実にお目にかかった姿とは大きく異なってはいたが、外套をきて帽子をあみだにかぶった戒能先生を、私は来栖先生の描写によって頭に思い浮かべていたのである。
この年には、四月に平和条約・日米安保条約の発効と占領体制の終結があり、五月にメーデー事件が起こり、七月に破壊活動防止法が成立した。その間、戦後改革の再編と戦後体制の構築が進んだ。そして、戦後改革に新たな日本社会の発展を期待していた法社会学は、形成されつつある体制の法的分析と批判という課題に直面せざるを得なくなった。一九四八年から一九五一年にかけて行われた法社会学論争は、不明確ではあったが、この課題を指し示した点において意義を持つと考える。
来栖先生の開講の辞を聞いたとき、私にはそんなことは何も分からなかった。しかし法をそれ自体からではなく、社会との関係において研究すべきであるという先生の主張は、よく理解できたし納得もいった。それからは末弘先生の本は大半を読むことになったし、川島先生や戒能先生の本も片っ端から読んだ。もちろん今でも分からない所だらけだから、当時どの程度理解できたかは疑問である。
一九五三年、三年生になって本郷キャンパスに移った私は、来栖先生の家族法ゼミにいれて戴き、先生が提示されたテーマの中から「男女不平等論」を選択した。図書館の蔵書で飽き足らず神田の古書店で資料をあさり、ゼミの先輩である赤松良子さんを労働省に訪ねて山のように婦人少年局の資料を戴いた。その時作った大学ノート三冊のメモが残っているが、恥ずかしくて開ける気にならない。しかし、捨てる気にもならなくて弱っている。
来栖先生は、その夏ゼミ員をつれて富士吉田の農村に行かれ、機織りのための貰い子(労働力養子)の調査を実施された。私も、その後通産次官となった福川伸次さんや厚生次官になった吉原健二さんと一緒にいくつかの機織り農家を歩いた。養女の幼い顔を見ながらの初めての調査は、その後の私の長い調査歴に大きな影響を与えたと思う。
四年生になった一九五四年の私法学会では、来栖先生の「法の解釈と法律家」という報告が注目を集めた。学生たちにも、その雰囲気は伝わった。私は、先生が前年に書かれた「法律家」(末川博還暦記念『民事法の諸問題』有斐閣)を読んで大いに感激し、開講の辞の延長をそこに見たような気がした。この論文は、法体制を構築する解釈法学の在り方を批判するものであり、開講の辞でなされた日本の法社会学の総括の上に書かれたものだという感じがしたからである。
この年の一〇月、私は来栖先生に、福島正夫先生のお手伝いをするようにといわれた。来栖先生もその一員であった「家」制度研究会の資料作りの仕事である。その後の数年間、私は福島先生とともに「家」制度の研究に没頭することとなり、それを通じて「家」制度研究会の多くの方々の教えを受けることができた。ここから始まった法の歴史的研究は、私のその後の研究の骨格の一つを形成した。
こうしてみると、私の法社会学への出発は、来栖三郎先生の開講の辞に導かれ、福島先生の「家」制度研究に多くを負っていることが明らかである。この幸運を十分に生かすことができず、日暮れてなお道遠しの感のあることは、まことに残念としか言いようがない。