大学設置基準の大綱化によって、教養部などの解体を経た現在、大学の教育(研究)の現場にどのような変化が起こっているかについてよく観察し、考えてみることは重要なことである。
大学で基礎教育を進める上で、以下の諸点をみるならば、数学やその他の自然科学の科目と比較して、物理学は乗り越えるべき課題が多く、最も学習が困難な科目であると思われる。まず数学の学習により解析的能力を養い、それを物理現象に応用していくことが必要である。このとき基になる物理法則やさらに広く物理学の概念的なものと数学の解析的手法とが相互に位置を変えながら、すなわち思考をらせん的に粘り強く進めなげればならない。また現実の生の現象は複雑であり、物理学の上にのせて考えるために、常に現実に対する抽象化の側面を必要とする。そのためには問題の立て方自体が、考えの進行とともに変更されていく度合が大きい。また物理学は、固有の手法である次元や単位などにみられるように、出発からして統一的約東事を要求し、基礎方程式や各種の保存則の組み合わせにより得られた結論について、より基本的法則や概念の立場から点検することを要求する。このため、学生が何か1題の演習問題を解くにしても、かなりの分量のシステマティックな思考の展開を要求する。
上記の課題は必要条件であるので、その内から一つでも乗り越えることができなければ、結果として物理学の学習に失敗し、学生は無力感や絶望感を持ち、次第に物理学拒否の心理を抱くようになる。このように考えると、物理学の教育が教室において効果を上げるためには、教育条件を出来るだげ充分なものとしておかなければならないことになる。この教育条件に依存する問題は様々の場面でみることができる、マスプロ教育は、学生を授業に参加させ集中させるという基本的なことからしてそれを困難にし、また学生の理解の過程を追跡し指導する課題、さらに綿密な成績評価の実行などに対して大きな障害をもたらすものである。したがって、授業の内容や教師の力量にかかわらず、授業を行う前からすでに学生は厳しい条件におかれていることになる。また学生自身が参加する実験教育の現状を改善しようと教師が一たび考え出せば、自己の努力は当然として、人的、財政的諸問題がたちまちにして頭の中をよぎる訳であり、実行にまで至る場合は少ない。このように、物理教育のための実施体制が充分であることは、物理教育の生死をかけた必要条件であると考えられる。このことがまず物理教育の実施体制について調査をしなければならない理由である。しかし、実施組織は多様化し、その現状を把むことが困難になっていると思われる。かつての専任的体制を解かれたところでは、問題提起の必要を感じたとしても、そのことを発議する手続きすらが見えなくなっているという、極端な場合も生まれてくることになる。
物理学会の物理教育委員会では大学設置基準の大綱化以降、大学の物理教育がどのように変化したかについて様々の議論を行ってきたが、各大学の教育組織が多様化し、誰が情報を把握しているか外からわかりにくくなっている点や、各自の周囲はみえても大学全体のことはわからないなどの傾向が進んでいることが明らかになって来た。そこで各大学の機関別に情報提供者(コンタクトパーソン)を求めるアンケート活動を行った。もともと教育内容などの内容にかかわる調査がこれまでの教育調査の課題であったが、その前のいわば調査の宛名書きからして調査課題になるというところが、残念ながら現在の特徴であるといえる。
物理の教育の任務からすれば、基礎教育だけではなく物理の教養科目についても不可欠の要素であると考え、基礎教育と教養教育とについて情報提供老を求めることにした。
ここで教養科目とは通常は文系学生を対象にした物理学の教育を指すのであるが、より広く理系学生への教育課題も含まれると考えるべきである。理系学生に対する近現代物理(相対論、量子論)や物理学吏や数学とのかかわりの問題、自然哲学なども物理学の教育として重要なものであり、大学の物理教育の責任分野と考えるべきと思われる。そしてこれらの内容は文系学生を対象とする授業内容と一致していることも明らかである。理系の物理教育には基礎教育のみで良いと考えると、基礎教育の限界をつくることになる。法則や公式の成り立ちは省き、その使い方のみを教える、いわゆる「ツール」としての物理法則の紹介は、広く理系の分野から直接要求されるところであるが、その点のみを目標としても目標は達成されない。理系学生も人間であり、学習過程で起こる障害は文系学生と比較して、この前まで高校生であったことを考慮すれば、非常に違うということではない。「ツール」の使い方のみを教育課題とすれば、学生が「ツール」を使う機械になり得ない以上、学生は育たないことになる。以上の意味で、大学の物理教育において教養科目は重要な役割を持つものであり、それを物理学関係者が否定することはできない。したがって基礎教育と並んで教養科目の柱があるのである。調査はまず1997年1月(1次)に行われ、さらに8月にも再度呼びかけた(2次)。1次では約200大学(学部)に対し回答は約70大学(学部)であり、2次では約310大学(学部)に対し回答は約90大学(学部)となった。物理の教育組織の現状を整理する場合、大学を以下の3つのタイプに分類すると見通しが良い。
A総合大学、文理両分野を持つ大学
B理工系大学(農、水産などを合む)
C医歯薬系大学
Aとしては88大学、Bとしては41大学、Cとしては36大学がら回答を得た。大学は教育機関であるので、建前としては、各大学においては、物理の教育組織は基礎および教養教育をすべて統括しているはずであるが、回答の状況から推定すると実際は必ずしもそうはなっていない。この点をAについてみていくことにする。大学で上記の基礎教育と教養科目の両者について、教育実施組織が適切に組まれているかに注目して、アンケートを整理すると、以下のような結果となった。基礎および教養教育を統一する実施体制を持っているところは44%、基礎教育のみの組織体制のところは24%、教養教育のみの組織体制のところは5%、学部段階の組織を持つ所は17%、学科段階の組織を持つところは10%となっている。このように建前としての全学的教育体制は当然あることになっていても、実際に組織として機能しているかという観点から、少し厳しく分類すると、様々の段階に分かれる結果となっている。この点、Bについては、大学全体の組織がある所の割合が高く93%、Cについては100%となっている。この結果から、組織のまとまりとしてはC,B,Aの順であるといえる。ただし、BとCで上記の意味での教養科目がどうなっているかは不明である。
Aにおいては、B,Cと比較して物理教育の位置付けについて大学内で議論が分かれたり、大学の規模が大きいことなどの困難さから、物理の教育組織の設計がむずかしいことになる。Aの中で全学組織を持つところは主に委貝会方式による実施体制をとっているところが多いと思われ、専任組織の解消による当然の帰結であろうと思われる。大学としての規模は大きくても、物理の教育組織が一部しか機能していないと思われるところは27%となっている。しかし、いずれにしても実施組織について具体的に調査してみないと正確にはわからないのであり、実態調査が待たれるところである。
コソタクトバーソンの提供できる情報の内容を調べるために、教育組織、カリキュラムや履修条件、授業担当体制、財政、教育内容などの項目について筒報提供の可能性を設問したが、ほとんどの頃目について「回答する」とした場合が多かった。コソタクトバーソノとして回答された方々の問題意識や調査への期待が強く、現在実態調査への機運が高まっている情勢であると思われる。実態調査の調査項目としては以下の様なものが考えられる。
大学の学部・学科構成。
大学・学部の教育に関する意志決定機構と運営体制。
基礎物理教育(教養教育を含む)の単位設定と履修条件。
学部・学科の専門教育の中におげる物理教育の位置と役割。
教育内容と分量。
高校教育との関連(入試の多様化、補習、既修と未修)。
教育の評価(授業時間数、演習の要素、理解度と達成度、成積評価。
公的点検評価との関連)。
教育実施体制(1クラスの学生数、担当教員の組織形態、旧担当者と1日学部教員の担当状況、非常勤とTA)。
物理学実験(コマカウント、クラス規模、学生数/教員数、施設・設備・教材、維持・管理、企画・開発)。
予算施設。
しかし、これらの項目を一度に調査することは現実的でないので、当面必要なことに絞って行うべきであろう。大綱化直前の大学の物理教育についての実態調査は科研費(代表者原康夫)によって行われている1)。そこで、これから行われる実態調査は以前の調査との関連に留意し、また現在の新しい側面を組み込んでなされなければならない。調査実施組織としては人的あるいはデータ整理のためのコンピュータシステムの状況からみて、科研費「大学物理教材のネットワーク化」(代表者宮脇澤美)のグルーブによって、現在計画されている。
大学教育に比較して、初等中等教育については国民の全てが三自己体験し、また親となっての子育ての体験もあり、多くの論点で様々の角度から議論され、関連する出版物も膨大な数にのぼっている。それらの議論は少なくとも教育の実態の一面をカバーしており、それなりの真実味と、議論展開による充実感をもたらしているので、それらのいずれの結論もかなりの重みを持っている。しかし個々の論点だけでなく、それらを突き合わせて、より大きくまとめようとすると、一つの問題に対して対立する見解が存在し、結局「よくわからない」で終ってしまう場合多い。たとえば、個性化、ゆとり、学校週5目制、多様化、競争原理の導入、中高一貫教育、飛び入学、英才教育・・・・・などについて、結論は出ずに、議論だげに終っている場合が多い(議論疲れか?)。同様の傾向は大学の物理教育についての我々の議論においてもあるのではないだろうか。そこでこの状況を一歩進めて、「何が正しいか」にまで到達するために、何が必要かを考えてみてはどうだろうか。そうすると、必要な議論の水準は「科学としての」教育制度や体制の検討であろうということになる。藤田英典氏の「教育改革」は、その点で、我々の素朴な悩みについて、いわゆる科学的手法で処理し、一定の結論を出している内容である。教育というよく目に見え、ありふれた問題を、自分の体験や好みからの議論で済ませるのではなく、教育現場のデータに基づいて、論理を飛躍させず、むしろやさしい論述を丁寧に積み重ねて結論を出していく手法は、大学の物理教育のあり方を議論していくうえでおおいに参考になると思われる。