微生物フォーラム:1(2001.12.12)

炭疽菌とテロ

山本啓之 聖マリアンナ医科大学微生物学教室

21世紀の最初の秋はテロリズムに彩られてしまいました。9月11日の飛行機テロのニュースを見たとき、ここでもしまかれたら被害が拡大する、と予想した人たちがいます。直後の11日の夜に調査が入り、病原体や有毒物質が散布された形跡はないと報告されました。しかし、それは遅れて配達されてきました。

炭疽菌とは
1876年、ドイツの医師で細菌学者であるRobert Koch は、炭疽(anthrax)により病死した家畜の血液から細菌を分離することに成功した。これが炭疽菌(学名:Bacillus anthracis )です。彼はこの病原細菌の研究の過程でコッホの原則(Kochユs Postulates) という感染症の基本原則を示すことになります。以来120年以上もの間、炭疽菌は世界中の研究者の手により研究されてきました。

このBacillusという名前を持つ細菌は、土壌(畑や牧草地などの土)に数多く住み着いています。微生物分類では、グラム染色性が陽性、芽胞を形成する桿菌で、酸素がある状態(好気性)でも酸素がない状態(嫌気性)でも発育することができる細菌、と記載されています。炭疽菌もやはり土壌に生息する細菌ですが、家畜(ウシ、ヒツジ、ヤギなど)や野生動物(主に草食獣)が感染を受けて死ぬことがあります。ヒトへの感染事例は、特定の汚染地域を除けば、極めてまれです。

炭疽菌が属するBacillusという細菌の分類群は、休眠胞子である芽胞(spore)を形成します。これは植物でたとえると種に相当する細胞です。ただし、植物の種よりも、乾燥や熱また消毒剤に耐性です。乾燥状態において少なくとも数十年は眠った状態で生き続けます。この休眠した芽胞がヒトや動物に感染します。休眠した芽胞は、水分と栄養物がある環境に入ると目をさまし、活発に分裂増殖します。つまりヒトや動物の体の中が、芽胞が目をさます環境のひとつということです。

炭疽という感染症
炭疽(anthrax)という病名は、皮膚に感染すると黒褐色の痂皮をもつ潰瘍ができることに由来します。英語でもBlack Baneと呼ばれています。炭疽は、病原体が侵入した場所で症状が違います。皮膚炭疽は皮膚のわずかな傷口から感染した場合に発症します。腸炭疽は汚染された食品や水から、肺炭疽は芽胞を吸入した場合です。肺や腸に感染した場合は死亡する確率は高くなります。幸いにして、患者から他のヒトへと感染する可能性は極めて低いです。感染は、環境にある芽胞との接触あるいは摂取により始まります。

この炭疽菌の芽胞に対して、我々は無力ではありません。適切に使用すればどこででも入手できる家庭用の塩素系漂白剤でも消毒することができます。しかし不幸にして感染した場合には、自分で診断することは難しいです。

ヒトの炭疽の詳細は国立感染研究所のサイト<http://idsc.nih.go.jp/kansen/k99-g52/k99_46/k99_46.html>を見てください。日本国内でも家畜に炭疽が発生することがあり、その発生状況や炭疽に関する最新情報が、動物衛生研究所<http://niah.naro.affrc.go.jp/index-j.html>のサイトで提供されています。

郵便物による炭疽菌テロ
病原体を兵器として戦術に使用した記録は14世紀にまで遡ることができます。その当時は病死体を敵陣や水源に投げ込んだりして敵軍に感染症を流行させていました。1950年代になると、国家戦略として生物化学兵器が組織的に製造され、また実際に使用されました。

10月6日に最初の死者が報じられた米国での炭疽菌テロでは、郵便物に炭疽菌の芽胞を入れて、送り付けています。芽胞を作らない他の病原細菌では粉状にして郵便で送る間に死んでしまう可能性が高いですが、乾燥や熱に強い芽胞であれば、世界中どこにでも送り付けることができます。これはあまり予想されていなかった攻撃手段です。しかし、信頼関係にもとづく安全を破壊するというテロリズムの目的は十分達成しています。

乾燥に強く保存が容易で、接触しても、吸い込んでも、飲み込んでも感染する。ヒトでも動物でも発症する。全世界の土壌に生息していて入手が容易である。このような性質を持つために、炭疽菌は不幸にして1940年代から生物兵器へと転用されたのです。

米国の事例では、白い粉末を目にしていない郵便配達の人たちにも感染発症者が出ています。これは、生物兵器との接触点は実際に患者が出て、医療機関により診断が下されるまでわからないという現実を示しています。

炭疽という感染症は、診断がつけば抗生物質により治療できる疾病です。しかし、感染症の診断というのは、多くの人たちが予想するよりは大変な作業で、経験がない病原体では診断が遅れることもあります。また流行するはずがない感染症が突然出現しても、診断が遅れることがあります。これは技術的な問題ではなく、病原体の種類が多いいこと、医療も経費効率が求められるためすべての病原体検査に常に対応していないことなど、いくつかの理由が原因です。

生物兵器の最前線は、患者が訪れる病院や診療施設です、あるいは動物病院かもしれません。今回の炭疽菌テロは郵便物により芽胞を送り付けるという拠点攻撃のため、短期間に多数の患者が発生して医療体制が破綻するという事態は発生していません。また使用された炭疽菌は、1950年代に米国で分離培養されたAmes株というタイプであること、抗生物質に耐性ではないことが早いうちに判明しています。この菌株であれば、感染しても早期に診断がつけば抗生物質の投与で治癒します。

個人的な意見として
生物兵器に使用されたあるいは転用できる病原体はリストにまとめられていて、世界保健機構や米国疾病予防センターなどが実際に使用された場合の対策マニュアルを出しています。また日本国内でも医療関係から炭疽菌テロが発生した場合の対処マニュアルを掲示しています。

この先何年間かは、日本でテロによる炭疽菌感染者あるいは炭疽患者が発生した場合、すでに米国で使用されたという事実をもとに速やかな検査や診断が実施できる状態を維持できるでしょう。違う種類の病原体が使われないかぎり、郵便による炭疽菌テロは医療現場に大混乱をもたらす可能性は低いと期待できます。

病原体を保管している大学研究室には、保管している病原体の種類や保管状況を確認するアンケートが来ました。これ以外にも、日本の政府関係機関がいろいろな方策を講じていることは、専門家から話に聞きます。困るのは、政府からの明確なメッセージがまだ見えてこないことでしょう。

微生物学の専門家は何を考えているのでしょう。微生物の兵器転用を完全に防止するのは容易ではありません。病原体を分離培養する方法は感染症の研究や検査の基本技術ですし、大量に培養する技術はワクチンや薬品の製造また発酵による食品製造の基本技術です。研究者や技術者の良心にゆだねられると言えそうですが、これも国を守るためにという論理が入ると生物兵器への転用が正当化されることがあります。生物兵器を悪として禁止するのは簡単ですが、それが守られるのかというとかなり難しいようです。

多くの微生物学研究者は生物兵器を悪として禁止することに同意しています。生物兵器が机上ではなく現実の世界に存在するという前提に立ち、生物兵器が使われた場合にどのような状況が発生するのか、何をしなければならないのか、不足している技術はないか、などを検証する必要はあります。しかし、これには様々な分野の専門家が参加しなければ実現できないでしょう。


バイオテロ(bioterro)に関する情報サイト

米国微生物学会(ASM)<http://www.asmusa.org/pcsrc/bioprep.htm>
ジョンホプキンス大学<http://www.hopkins-biodefense.org/>
米国疾病予防センター<http://www.bt.cdc.gov/>
世界保健機構<http://www.who.int/emc-documents/>

日本臨床衛生検査技師会(微生物検査研究班)<http://www5a.biglobe.ne.jp/~jmtmicro/>
日本感染症学会<http://www.kansensho.or.jp/>
厚生労働省< http://www.mhlw.go.jp >