Japan Society of Youth and Adolescent Psychology

第25号 2001.9.1

News  letter 発行:日本青年心理学会事務局


【 目次 】


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再び理事長に選ばれて-------------------------------齋藤耕二(白百合女子大学)
青年心理学研究者に青年をとらえる社会的な視点を-----伊藤裕子(聖徳大学)
青年期研究の理想と現実-----------------------------岡田 努(金沢大学文学部)
青年期研究における実証と解釈-----------------------谷 冬彦(神戸大学発達科学部)
青年心理学はそんなにおもしろくないのか?-----------伊田勝憲(名古屋大学大学院) 
ニューズ・レター新編集委員会より
資料

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再び理事長に選ばれて。

齋藤耕二(白百合女子大学)

2000年度に行われました役員選挙によりまして、私が再び理事長に選ばれ、日本青年心理学会を代表する仕事を担うことになりました。微力ですが、会員の皆様のお力添えのもとで本学会の一層の発展に努めていきたいと思っております。事務局長の仕事も、幸いにもこれまでと同じに大野 久先生(立教大学)が担当することになりましたので、お互いに気心のあった組み合わせとして学会活動の充実に努力する所存であります。
振り返りますと、30名ほどでスタートした青年心理研究会が日本青年心理学会に引き継がれて、現在では会員の数も創設時の10倍近くに達しています。会員数がそのまま、青年心理学の科学としての意義やその研究領域への関心を示すものではありませんが、組織としての拡充は、青年期研究の意義、重要性が心理学研究者に広く認知され、支えられていることを示していると言えるでしょう。日本の社会における青年の現状を見ますと、不登校、いじめ、ひきこもりなどさまざまな適応上の問題から非行の深刻化など多様な社会病理的現象が目につきます。このような問題に直面するなかで、青年期への心理学的アプローチはより幅広い視点、枠組みからの新しい構成を必要としているように思われます。
日本青年心理学会が、青年期の理解に寄与し、さらには青年の幸せを増進させる原動力となるよう会員の皆さん方とご一緒に力を合わせてゆきたいと願っております。

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青年心理学研究者に青年をとらえる社会的な視点を

聖徳大学 伊藤裕子

 前回(24号)のニューズ・レター「座談会 青年心理学をおもしろくするには?」を読んだ。読後、これを企画した浦上氏と勇気ある(?)参加者に同感のエールを送ると同時に、青年心理学研究誌を編集する現委員長としては、一瞬ムカッ腹を立てずにはおれなかった。投稿原稿の少なさ(新規に投稿される論文は年5〜7本)、そのため年1号の刊行すら危ぶまれる現状、その上オモシロイ論文がないと言われては、田中真紀子流ではないが「あんた達、自分の足元見て言ってんの!」と言いたくもなる。
 それはさておき、しかしここで論議されていることに個人的にはほぼ同感できる。まず第1に、青年心理学に対する限定されたイメージ、"広がり"が必要であると言われていること。私自身は社会心理学からだんだんに青年心理学へシフトしてきたわけだが、そうなればなるほどある種の息苦しさを感じ続けてきた(最近はその中核にいるため、その感覚が大分麻痺してきたかもしれない)。私たちが青年期心性を論ずるときに、彼らが置かれている現在の社会状況、生きている時空間を抜きには論じられないが、しかし、そのことは(狭い意味での)青年心理学で論じられないばかりか、社会心理学ですらまともに取り上げようとはしない。
 例えば良い例として、女子青年の摂食障害(とその裾野に広がるやせ願望)の問題を考えたとき、まず臨床心理学の視点から、個人の適応あるいは家族の問題が(その範囲内で)考えられるだろう。しかしそこには明らかに異性から"見られる自己"やボディ・イメージなど青年期に密接に関わる問題が内包されており、さらにはこの20年で急速に変化した"女性のあるべき姿"や女性性の問題が絡んでいる。一研究者がそれら全ての側面から問題を取り上げるのは不可能にしても、その結果、それぞれの領域からアプローチせざるをえないにせよ、せめて研究者に、取り上げる研究対象が自分では扱い得ていない他の領域の問題を内包していることの"自覚"が欲しいと思うのである。自分はこういう視点から問題を取り上げたが、それは○○や△△という側面の輻輳から成り立っているという視点と自覚があれば、考察にずっと深みと広がりが増してくるのではないだろうか。また、そのことによって他の領域の研究とも接点が持て、研究が有機的に繋がっていく可能性が生まれてくる。「青年」というもののある種特殊な位置――それは丁度さまざまな方向から来る道路(領域)が交叉する交叉点上にあるようなもの――を各研究者が十分自覚することによって、先の問題が少しは改善されるのではないかと思われる。
座談会のなかで問題になった第2は、「今の青年心理学は変わる部分、すなわち
青年をとらえる"旬"な鍵を軽視する傾向にある」ことである。私自身もそれは常々感じていた。アイデンティティ研究にしても、まるで"社会"という空気が存在しない真空管の中に入っている青年を扱っているような印象を時として受けてしまうことがある。青年が直面する問題、悩みには普遍的なものもあるし、また今という時代に絡み取られた抜き差しならない問題もある。 例えば、職業意識あるいは進路指導の問題を考えたとき、若者のフリーター志向を研究者はどこまで本気でとらえようとしているのか。労働の現場では大きな問題になっているし、当の青年自身にとっても、また日本の将来(?)にとってもゆゆしき問題であるのに、青年心理学ではもちろん、社会心理学でも見あたらないし、経営・労務管理の領域ではその埒外にはじかれた人間たちだから研究の対象にはなっていない(と思う)。もちろん、フリーターを許容/強要する今日の社会状況、親の経済力、高学歴化など青年を取り巻く状況によるものが大きいが、やはり当の青年自身の職業意識や価値観、ライフスタイルの変化が大きく作用していことは間違いない。これらの問題を青年期研究者が扱わずして一体誰が取り上げるのだろう。
 私たちの周りにはこうした"旬"の研究対象がごろごろしているのだが、恐らく大学院生がこれらの研究テーマを引っ提げて指導教官の下を訪れた途端、ケチョンケチョンにたたかれて、シュンとなって帰ってくるのが落ちなのだろう。年を取ってくると(私を含めて)柔軟性が無くなってくるため、そういう"旬"の研究を"キワモノ"としてみてしまうことが多い(学生のためを思ってなのだが)。旬とキワモノはほとんど紙一重、そこにみられる現象には、きわめて今日的な、あるいは今後の変動を予感させうる問題が潜んでいるかもしれない。旧態依然とした問題を旧態依然とした方法で分析し、記述して、何の新たな知見が見出されようか。
 自分自身を引き合いに出すのは気が引けるが、当時(1970年代前半)40代と60代の既婚女性を、母の女学校の卒業生名簿をたよりに対象者として、「戦後おける女性の役割観の変容」と題して書いた卒論の評価は"B"であった。次に、20〜50代の成人を対象に行った性役割研究の修士論文(1970年代半ば)では、口頭試問の席上で、後に日本心理学会会長となる教授から、「男らしさや女らしさのような猫の目のように変わる現象を扱うのは真の研究とは言えない!」と真っ向から否定されてしまったのである(まあ、それでも大学院(後期課程)には取ってくれたので、今日なんとか食べて行けるようになったが)。
 70年代前半のあの当時の先生達の目には、私のやろうとする研究テーマが極めて"キワモノ"として映ったのだろう。お陰で大学院を出て10年近くはほとんど心理学とは縁のない(社会学や歴史学、文学などが交錯するような)ところで研究生活を過ごせたし、心理学における社会(学)的な視点というものと格闘することができた。
 そして今、これを書きながら思ったのは、座談会に出席している若い研究者達は、自分の身を安全なところに置いて、それで現状を嘆いているように思えてならないのである。このことをやりたいからやる、止むに止まれぬ欲求から研究せずにはおれないというのではなく、現状の研究の枠の狭さを嘆きながら、でも自分の研究はその現状の研究の枠に何とか収めようとする。自分がその枠を広げなければ、誰が広げてくれるというのか。その枠組みに息苦しさを感じているのはあなた自身なのだから。その結果が吉と出るか凶と出るかは後の時代が判定してくれる。確かな方法論を持つことは必要だが、対象を切り取る"眼"はいつも磨いておいてほしい。

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青年期研究の理想と現実;日本心理学会でのワークショップより(1)

岡田 努(金沢大学文学部)

 去る日本心理学会第64回大会(2000)において「青年期研究の理想と現実」と題するワークショップの機会を持ちました。話題提供に岡田(金沢大学),谷冬彦氏(神戸大学),風間文明氏(文教大学非常勤講師),また指定討論に下斗米淳氏(専修大学)というメンバーでした。幸い多くの方にお集まりいただきましたが,青年心理学会の皆様には多少馴染みの薄い?日心ということもあり,残念ながらご存じなかった方も少なからずおられたかもしれません。そのような訳で,この機会をとらえ,本学会員である岡田と谷氏の話題提供から,一部をご紹介したいと思います。(字数の制限から大幅に縮小してありますが)。
 この「青年期研究の理想と現実」というタイトルには2つの意味がこめられています。一つは文字通り,理想的な研究のあり方とは何か?そこから照射した時,現実はどうなっているのか?を考えるというもの,そして今ひとつは,青年期研究は,青年の「理想」像を求めるものなのか,あるいは「現実を記述する」ものであるべきなのか?というものです。さらに言えば,私たちはここで「青年心理学」ではなく「青年期研究」というタイトルを用いました。これは明治時代に青年に対する訓育を目的として導入された「青年心理学」の枠組みを越え,発達心理学や社会心理学を含んだ広い視点から,科学性をもった心理学の一分野として青年期をとらえたい,という願いに基づくものです。
 ○岡田の話題提供
(1)「望ましい青年像は本当に望ましいのか」
 青年心理学においては,青年に対する指導,教育的な側面がとりわけ重視され,青年としてあるべき姿が追求されている。こうした青年心理学では,青年の平均値を客観的に記述しても青年の全生活空間における実像は把握できず,また実在しない「平均人」を青年の本質とはできないということから,平均像ではなく,むしろ青年の「典型像」を記述する研究が盛んである。このことについて日本青年心理学会第7回大会ワークショップ(1999)では,「典型的研究」は,ある特性についての分布において,正規分布の右端(より望ましい群)を見ているに過ぎず,これを以て「青年の本質」と呼ぶことができるのか?という点を指摘した。また,平均研究では,平均値に加えて分散や信頼限界など,値の広がりを判断の材料にしており,実在しない「平均人」を想定していることにはならない。
 青年心理学における「典型」すなわち「青年の本質」は「青年らしさ」という呼び方もされる。「らしさ」とは「中学生らしい服装」といった表現にみられるように「望ましい,「あるべき青年像」という意味合いが含まれている。すなわち青年心理学における「典型」とは,青年を指導・教育する上での目標,望ましい姿を意味している。しかしある青年像がなぜ「望ましい」と言えるのだろうか?こうした「問い」に対する多くの答えは,基本的に「それが青年期らしい特徴を示しているからだ」というものであるが,これはトートロジーではなかろうか。
(2)実証か説得か
 青年心理学においては,青年期の抽象的な心理を量的に示すことは困難であり,実証的方法よりも説得的方法が有効であるとされている。しかしここで「説得」の対象とされているのは,より精緻な記述によって「研究者を」説得するのではなく,あくまで「青年自身」に対する説得である。もちろん青年心理学の教育的目的からすれば,これでもよいと言えるかもしれないが,少なくとも実証的・量的方法の短所を補ったことにはならないのではないだろうか?また教育者として自らの教育理念,信念を青年に教育することと,研究者として,自らの価値観,信念を客観化し中立的に青年を把握することを混同することは,教育理念によって研究の視点にフィルターをかけることにつながる危険はないのだろうか?
(3)実証的データ 略

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青年期研究における実証と解釈―科学性と物語性の交錯―;
日本心理学会でのワークショップより(2)

神戸大学発達科学部   谷 冬彦

 "従来の青年心理学を非体系的・混乱的にしたのは,所論の中に事実の記述とそれの意味(解釈)とさらにそれに対する指導(教育法)とが入りまじって述べられている傾向が大きかったからである。"(津留,1970)
 私の話題提供は,上記の津留(1970)の言葉の引用から始まった。
 津留の30年前の指摘を踏まえ,私が主張したかったことは,青年心理学においては実証的・科学的に検討された事実と,単なる解釈的な物語が交錯し,混乱しやすいということであった(なお,青年心理学が指導・教育の側面を内包するという問題点については,岡田氏がすでに述べている)。その一例として挙げたのが,青年期を「疾風怒濤」の時期とするものである。"Hilgard's Introduction to Psychology"(2000)によれば,そのようなことを支持する研究結果は無いとされている(なお,余談であるが,元良ら(1910)によるHall(1904)の"Adolescence"の邦訳本を読んだが,「疾風怒濤」の言葉は見つからず,青年期の感情の動揺について述べた部分も少なかった。岡田氏に"Adolescence"の原典を見て,確認してもらったところ,邦訳本ではカットされているPrefaceに"storm and stress"を含んだ文章があるのみで,やはり青年期の感情の動揺について述べた部分は,全体の中で僅かしかなかったとのことだった。)。つまり,青年期を「疾風怒濤」の時期とみなすのは,いわば「青年期発達ナラティヴ」ともいうべき,勝手な解釈によって作り上げられた「物語」に過ぎないのである
(詳しくは,谷(2001a)を参照のこと。また,もう一例として,Marciaのアイデンティティ・ステイタス・パラダイムについても取り上げたが,それについては,谷(2001b)に詳しく述べてあるため,そちらを参照して欲しい。)。
 いずれにせよ,実証科学としての青年期研究を行う場合,「青年期発達ナラティヴ」のようなフォーク・サイコロジーによって,理論や仮説構築・考察にバイアスがかかるようなことがないよう,注意深くあらねばならない。なぜならば,津留(1970)が指摘しているように,青年期を過渡期と定義する限り,青年期に関する研究は,本来的に解釈的・主観的になってしまう危険性があるからである(谷,2001a)。
 また,方法論的問題にも言及し,従来から青年心理学においては量的・質的方法に関する議論があるが,量的・質的方法という区別では,その研究目的がはっきりしないがゆえに議論が混乱するのであって,研究目的によって「仮説検証法−仮説生成法」(もしくは「実証的アプローチ−解釈的アプローチ」)とするのが適当であると提案した。要するに,「仮説検証(実証)か仮説生成(解釈)か」を明確に分ければ問題は整理されるのである。
 以上がおおまかな私の話題提供内容であるが,このような議論を不毛なものとみなす者もいるかもしれない。しかし,このワークショップの直後,内閣府が所管する青少年問題研究会から,機関誌である「青少年問題」への執筆依頼が私のもとにきた。ワークショップに出席した麦島文夫会長の推薦だったそうである。おかげで,私の話題提供内容の一部を公表する機会に恵まれた。そのことにも示されるように,われわれのワークショップの議論は決して不毛なものではなく,今後の青年期研究の発展にとって意義のあるものであったと確信している。

 主要引用文献
谷 冬彦 2001a 青年という物語−少年から大人へ− 青少年問題,48(2),13-17.
谷 冬彦 2001b アイデンティティ・ステイタス・パラダイムに関する批判的検討(T)−基本的問題−神戸大学発達科学部研究紀要,9(印刷中)
津留 宏(編) 1970 青年心理学 有斐閣

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青年心理学はそんなにおもしろくないのか?

名古屋大学大学院教育発達科学研究科 伊田勝憲

 前号のニューズレターで「青年心理学をおもしろくするには?」と題した座談会を拝見した。身近ながらも普段はお話をする機会の少ない先生方・先輩方のお考えに触れることができ,まだ何の業績もない私にとっては,耳の痛い部分も含めて,自分の研究生活について考えるよい機会となった。ただ,座談会のテーマとそこで語られている内容に関しては若干の違和感が残った。僭越ながら,「おもしろい研究」と「健康な青年像」の2点に限って率直な感想および意見を述べさせていただきたい。
 まず,青年心理学はそんなにおもしろくないのだろうか。青年心理学に限らず,一般論として,他人のやった研究がおもしろくないというのは不思議なことではないと思う。研究者の間には,現在における興味や関心はもちろんのこと,過去の経験や将来の目標,さらには価値観にも違いがあるのだから,おもしろくないと思うことの方が多くて当たり前という気がする。自分がおもしろくないと感じても,他の誰かがおもしろいと思っているかもしれない。また,今はおもしろくなくても,将来,おもしろいと思える時が来るのかもしれない。それでは,自分がやっている研究についてはどうだろうか。最初からおもしろくないと思うテーマを選んで研究を始める人はいないから,少なくとも自分にとってはおもしろいということになるはずである。きっと,座談会に参加された方々もご自分の研究が全くおもしろくないと思っているわけではないだろう。私の少ない経験から考えると,漠然とした問題意識を研究として具体的な形にする過程での行き詰まりや妥協,そして結果としての物足りなさが,おもしろくないという感覚を生み出すかもしれない。特に大学院に入りたての頃は,早く調査に取り掛かろうと焦ってしまい,当初の問題意識から乖離した研究計画を立ててしまうことが度々あった。この意味での「おもしろくない」感覚とは,自分の成長とさらなる研究につながるよう,うまくつき合っていきたい。一方,つき合い切れない「おもしろくない」感覚もあるように思う。それは,他者からの評価を気にし過ぎることに起因する場合である。昨年度の私がこの状況に陥っていた。特に,学会での初めての口頭発表の後はかなり落ち込んだ。失敗の原因は,言いたいことを言わなかったことにある。そして,言いたいことを言わなかったのはフロアの反応が怖かったからである。つまり,自分の興味・関心を抑圧していた。その結果として,自分のやりたいこともわからなくなり,研究意欲を喪失した。まったくの悪循環としか言いようがない。おそらく,おもしろいと感じられなければ,ハードワークは困難だと思われる。四六時中おもしろくというわけにはいかないし,社会的な要請を考慮したシリアスな問題に取り組む使命感を持つことも必要だと思っている。その上で,ふと,おもしろくなってくる瞬間がほしい。そのためには,勇気を持って自分の興味・関心に正直になるしかないのだと思う。次に,健康な(悩まない)青年像についてのお話が出ていたことに関して私見を述べ,個人指導を主とする学習塾を経営している23歳の女性,不登校のまま3月に中学を卒業して4月からニュージーランドに留学した女子青年,学童保育所の設立・運営に関わるボランテア団体代表,NHK交響楽団のコンサートマスターなど,青年以外の人も含めて,多くの健康的と思われる方々とお会いした。その活動的な姿を拝見して,勉強や仕事のことで悩むことはないのかと尋ねると,多くの方が「悩む暇があったら行動する」と答えられる。それでも,よくよく話を聞いてみると,かなりいろいろなことを考えているようである。そして,実際に行動している。健康な青年は「悩む」のではなく「考える」「行動する」。一方,座談会で指摘されていた「何も考えていない」青年像は,悩んでいないのと同時に,考えてもいないし行動してもいないというものだろうか。しかし,このように悩まない青年像を2つに区別することには疑問がある。本当に「何も考えていない」青年は存在するのか。何をもって「ポジティブイリュージョン」と言い得るのか。たとえイリュージョンだとしても,それがいつまでもイリュージョンであるとは限らない。逆に,「悩む青年」が「何も考えていない」側面を持っているのではないかという視点があってもいいと思う。そして,青年を記述する際には,対人関係を含む「行動」あるいは「活動」に主眼を置いてみたい。彼らがどのような生活をしているのか,彼らにとってのリアリティがいかにして生み出されているのかを知るために。少なくとも「何も考えていない」というラベリングだけはしたくないと思う。さて,「青年心理学をおもしろくするには?」……「悩む暇があったら,自分の好奇心と良心にしたがって行動すればいい」というだけの話かもしれない。それを可能にする研究環境や対人関係などの諸条件にまで踏み込む議論があると座談会はもっとおもしろくなったと思う。


ニューズ・レター新編集委員会より:今号から3年間ニューズ・レターの編集を、高木
秀明(横浜国立大学)、小澤一仁(東京工芸大学)、小塩真司(名古屋大学)、西田裕紀
子(名古屋大学)、小平英志(名古屋大学)の5名で担当することになりました。ご協
力の程、宜しくお願いいたします。尚、会員の皆様からのご投稿やご要望はいつでもお
待ちしています。

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