2007年春 バタイユ・ブランショ研究会
本年も、下記のとおり、バタイユ・ブランショ研究会を開催することになりました。
ご多忙の折りとは存じますが、大勢の方のご参加をお待ちしております。

日時:2007年5月19日(土)10時00分〜12時30分
場所:明治大学(東京都千代田区神田駿河台1-1)リバティータワー11階1133教室
*参加自由
発表者:
宮崎康子(京都大学大学院教育学研究科臨床教育講座博士課程)
大井奈美(東京大学大学院学際情報学府修士課程1年)
荻野厚志(一橋大学大学院言語社会研究科博士課程単位取得退学)
発表の題目と概要
発表者:宮崎康子
発表題目:「G.バタイユにおける「遊び」理解から見る幼児教育――遊びを遊ばせることは可能か――」
発表概要:
教育者(保育者)は子どもに遊びを遊ばせることが可能なのだろうか。幼児教育においては、遊びは子どもの健全な発達のための有効な手段として位置づけられている。しかし、そもそも遊びを手段化することは可能なのだろうか。G.バタイユの遊び論からは、このような問いは成立しない。彼の遊び理解によると、遊びとは人間の生を全体的に巻き込む出来事である。それは教育者の企図と無関係に主体を巻き込む魅惑的でかつ暴力的な力でもある。
 このようなバタイユ的遊び概念は、従来の教育学においては十分に考察されて来なかった。それというのも、教育は労働と同じく、目的-手段関係に彩られ
た有用性にその基盤をもつ営みであるからである。しかし、人間には有用性を侵犯し至高性へと至る動きが抑え難くあるというバタイユの言葉に依拠しつつあらためて教育的営みに眼を向けるとき、そこには、語られてはいないだけで、たしかに至高性へと至る動き――例えば、遊び――が存在する。そのような動
きを教育の言葉でいかに語ることができるのか。バタイユの遊び論は、そのためにひとつの切り口を与えてくれるのでないだろうか。

発表者:大井奈美
発表題目:「バタイユにおける、生命に立脚したコミュニケーション≒意味生成としての〈内的体験〉――生命システム論、記号論からの解釈の試み」
発表概要:
〈内的体験>を意味生成という意味での<コミュニケーション>ととらえ、生命システム論・記号論からの解釈を試みる。
具体的には次の三部構成;
1.バルト『明るい部屋』におけるバルトの体験から<内的体験>を読む、
2、クロソウスキーによる<永劫回帰>解釈から<内的体験>を読む、
3、C.S.パースの<アブダクション>から<内的体験>を読む(この過程で生命システム論も関連付ける)。

発表者:荻野厚志
発表題目:「バタイユの「呪術的」壁画解釈について」
発表概要:
 旧石器時代の洞窟に残された壁画は、呪術的意図によって描かれたとする説が現在でも主流である。そうした説に対して、『ラスコー』におけるバタイユの姿勢は一見曖昧で、いわば留保付き肯定である。実際、こうした壁画解釈には、データ不足や進化論的同一視など、いくつかの問題点があるのだが、バタイユが第一に直面した難問は、芸術の有用性の問題である。無用な芸術という発想をすでにもっていたバタイユに、有用な呪術に導かれた芸術が突きつけられる。そこでバタイユがどのように「呪術的」芸術を練り直すのか…本発表ではそのことを考察したい(多少の変更が今後生じることもありますが、そのときはご容赦ください)。
 発表よりも討論の話題作りを心がけたいのですが、一般的に議論可能になるのはおそらく、
・芸術の有用性と目的
・作品の残存(生き残り)と効果
・形象の生成における類似と偶然、等々
発表者である私がどれほど気紛れを起こそうと、読んできていただきたいテクストは変えません。
Georges Bataille, Lascaux ou la naissance de l'art, Skira,1955 (Oeuvres completes, t.IX)
また、せっかくの機会ですので、Maurice Blanchot, L'Amitie, Gallimard, 1971,pp.9-20も議論の発展には有効かと思います。