東京歴史科学研究会

■第43回大会個別報告レジュメ(2009)■

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室町期における「都鄙」間交流―寺院社会から考える―

石田 浩子

私はかつて、鎌倉後期に京都醍醐寺から鎌倉に下向し幕府祈祷を勤仕した地蔵院親玄(東密)の活動について考察した(「醍醐寺地蔵院親玄の関東下向―鎌倉幕府勤仕僧をめぐる一考察―」(『ヒストリア』190、2004年)。その後、南北朝初期における親玄弟子たちの鎌倉・京都間における活動を、武家政権との関係形成という視点から考察した(「南北朝初期における地蔵院親玄流と武家護持」(『日本史研究』543、2007年)。鎌倉幕府に奉仕した地蔵院親玄の活動は、弟子たちにも継承され、彼らは戦勝祈祷を通じて足利政権(鎌倉・京都)との間にも奉仕関係を形成したのであった。

親玄の嫡弟として醍醐寺地蔵院を継承した覚雄は、建武年間には鎌倉を活動拠点とし、貞和6年(1350)2月以降は京都を中心に武家護持僧として活躍した。しかしながら、鎌倉への下向活動も貞治3年(1364)9月まで確認できる。覚雄は足利将軍家から鎌倉の永福寺別当にも補任されており、「関東」の地が活動の場として実態をもちつづけていたことを示す。ちなみに覚雄が入滅したのは応安2年(1369)6月である。

覚雄嫡弟の道快(改名して聖快)は、専ら京都を中心に武家護持僧として活動したようであり、鎌倉への下向記事は見あたらない。しかしながら、応永18年(1411)11月段階で、鎌倉永福寺において聖快自筆本が書写されていることを考えると、地蔵院院主にとって鎌倉の地が拠点のひとつであり続けたと指摘できよう。

その一方で、地蔵院院主が帰京した後の鎌倉においても、「親玄流」は独自の展開をみせた。本報告では、14世紀後半以降の鎌倉においても継承・機能していた「親玄流」という法流認識を通じて、鎌倉・京都間の人的交流について考察したい。

室町期の鎌倉における「親玄流」の頂点には鶴岡別当がいた。建武3年(1336)6月に、鶴岡別当に補任されたのは、親玄弟子の頼仲であった。頼仲の後継者である弘賢も親玄流として位置づけられる。さらに、『頼印大僧正絵詞』で知られる遍照院頼印も「親玄流」僧侶として自らを認識していた。両者は鎌倉公方氏満の護持僧であったことが知られる(山田邦明「鶴岡遍照院頼印と鎌倉府」〔『関東学院大学文学部1989年度紀要』58、1990年〕、石橋一展「南北朝・室町期の関東護持僧について―『頼印大僧正絵詞』を読む―」〔佐藤博信編『中世東国の政治構造 中世東国論』上、岩田書院、2007年〕)。

鶴岡別当弘賢や遍照院頼印の法流的立場やその自己認識、京都の嫡流地蔵院との関係、などから鎌倉・京都間における交流の実態を明らかにしたい。従来の研究では、鎌倉期と戦国期において、京都・鎌倉間で僧侶の交流が盛んであり、室町期は将軍・鎌倉公方の対立によって僧侶の活動も分化すると指摘されている。この認識についても、踏み込んで検討できればよいと考えている。

『人民の歴史学』179号に掲載

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江川農兵と農兵人(仮)

中西 崇

近世においては幕藩領主が武力を独占した。その一方で幕藩領主は百姓間・村落間での紛争解決のために人々が武力を用いることを法で堅く禁じ、そうした紛争には幕藩領主が沙汰を下すものとした。こうして、人々が武力発動をすることなく平和が保たれる天下太平の世が訪れることとなった。そのため、人々は自律的に武器の使用を封印していた。

しかし、開港以降の治安悪化により幕藩領主の武力だけでは在方の治安が維持できなくなると、文久3年(1863)に武蔵・相模・伊豆の江川代官領において農兵の設置が幕府から許可されることとなる。江川代官側は、支配領内の百姓から農兵人を募り、彼らに最新式のゲベール銃を貸し与えて訓練させ、臨時の際の武力とした。

この江川農兵に関する先行研究は多々あるが、概して江川農兵とは、領内の百姓に鉄砲を持たせて臨時の武力としたい江川代官側と、治安維持のための武力を持ちたい領内の名主層の意向が合致して成立したものとされている。

先行研究に従えば、農兵人たちは名主層の指示によって訓練にかり出された存在ということになろう。しかし、史料からは、そうしたイメージとは全く異なる農兵人の姿が浮かび上がってくる。農兵人は積極的に練習に参加し、かなり熱心に活動しているのである。その姿は臨時の兵士として懸命に訓練に明け暮れるというよりは、あたかも訓練が一種の楽しみであるかのように、ユニフォームや旗を作り、酒や茶菓子を味わい、さらには地域防衛という「本志」を忘れゲベール銃で射的ゲームに興じているのである。これは一体どういうことなのであろうか。

農兵の設立や運営に関する地域の名主・有徳人層の意識については、例えば須田努の研究(『「悪党」の一九世紀』青木書店、2002年5月「人斬りの村」(須田努・趙景達・中嶋久人編『暴力の地平を越えて』青木書店、2004年5月))がある。須田は、多摩の名主・有徳人層が甲州騒動の影響を受けて「悪党」を明確な他者と認識し、農兵を組織して地域の武力防衛と「悪党」の殺傷といういわば汚れ役を担わせようとしていたとしている。しかし、史料から見えてくる農兵人の行動からは、汚れ役をやらされる悲哀は全くといっていいほど感じられない。こうした農兵人の意識について、従来の研究ではほとんど着目されていない。

そこで本報告では、名主の日記や農兵の活動記録などから、どうして農兵人は積極的に農兵に参加し楽しみながら訓練を行っていたのか、なぜ農兵人は武州世直し騒動勢をためらいもなく、むしろ喜び勇んで殺害できたのかを考察したい。そのことは、平和な状態が崩れていく時の武力の発現のあり方を考えることにもなろう。

『人民の歴史学』179号に掲載

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日本国内における戦後補償運動の展開とその諸相(仮)

本庄十喜

日本国内において、十五年戦争および植民地支配におけるアジアに対する加害事実の掘り起こし等、日本人の戦争責任・戦後責任認識を基底に据えたさまざまな活動は、70年代前後から徐々に取り組まれてきた。歴史学研究の側からは、戦争犯罪研究等の備蓄を通して、それらへの積極的貢献が行われてきたといえる。被害者支援運動(=戦後補償運動)がより広がりをみせ戦後補償裁判等が活発化するのは1990年代以降だが、それ以前に人々の間で認識されるに至った加害者意識が、これら戦後補償運動には不可欠な思想的要素である。

これまでの研究で、アジアに対する日本人の加害者意識の自覚は、ベトナム反戦運動を契機に現れたものであるとの指摘がなされており(藤原彰「日本における戦争責任論の諸相」藤原彰、荒井信一編『現代史における戦争責任』青木書店、1990年、吉田裕『日本人の戦争観』岩波書店、1995年、石田雄「戦争責任論再考‐戦争責任論五〇年の変遷と今日的課題‐」『年報・日本現代史』第2号、東出版、1996年等)、それ以前の平和運動にはアジアに対する戦争責任意識は欠落、あるいは運動の思想的支柱にはなりえなかったことが明らかになっている。

本報告では、これらの研究成果に依拠した上で、アジアの被害者に対する戦争責任・戦後責任の追及の動きが具体的にはじまった1970年代、1980年代を主な対象時期とし、当時の研究や社会状況等と関連させながら、活動の担い手となった人々の問題意識がいかなる状況下で芽生えたのか、これら諸活動が生まれた背景の考察を試みる。そして、これら多種多様な活動を可能な限り整理した上で、1990年代以降により大きな広がりをみせることとなる戦後補償運動の成り立ちの一端を探ることとする。

『人民の歴史学』179号に掲載

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