■第44回大会委員会企画レジュメ(2010)■
| 企画趣旨 | 浪川報告 | 加藤報告 |
「自由」と「競争」の歴史的文脈
委員会
本会大会の委員会企画において、世界史上の現段階を「新自由主義」の時代ととらえ、新自由主義に対する批判にむけて歴史学が検討すべき課題を議論しはじめたのは第四一回大会(二〇〇七年度、「新自由主義」時代の歴史学)であった。その後も、戦後歴史学以降の成果を豊富化するための歴史学の方法の再検証に重点をおいた第四二回大会(二〇〇八年度、「新自由主義」時代の歴史学 U)、新自由主義的動向に対する対抗運動を構想した第四三回大会(二〇〇九年度、戦争責任と植民地支配認識―教育と研究の架橋にむけて―)を行い、新自由主義に対する方法的・実践的批判にむけた議論を積み重ねてきた。今年度大会の委員会企画では、過去三年の蓄積の上に立ち問題意識を継承しつつ新たな問題提起と議論の共有をはかるべく、「自由」と「競争」の歴史的文脈をテーマに掲げる。
昨年八月の総選挙の結果自公政権は退場を迫られ、小選挙区制度のもとで圧倒的勝利を収めた民主党を中心とする民主・社民・国民新の三党連立政権ができた。小泉政権の後を受けた安倍政権が一年で自壊して以降、政権のたらい回しが続き、「構造改革」のもとで地域社会や労働現場にもたらされた格差の問題が解決されないまま、有権者の不満の声を民主党がさらった形での政権交代であった。
周知のとおり、一九八〇年代の「民活」路線、九〇年代の「規制緩和」によって資本の「自由」な移動、効率の追求、グローバル競争が展開され、二〇〇〇年代に入り「構造改革」の下で社会保障の切り捨て、雇用の不安定化、低賃金化がすすんだ。また、その結果生起した社会不安が社会的弱者・少数者の排除やナショナリズム(とりわけアジアに対する)として現れる中、「九条の会」、「反貧困ネット」に象徴される様々な対抗運動も高まりを見せるようになった。「小さな政府」と「大きな国家」をその本質とする新自由主義の矛盾が露呈した末の政権交代劇であろう。この機においてこそ、「自由」と「競争」が跋扈する中で進行した社会的排除の問題性を地域の歴史的文脈に即して再検討することが必要であると考え、浪川健治氏と加藤千香子氏に報告を依頼することとなった。
まず浪川報告では、民衆の「自由」な移動が広範に展開した近世後期から幕末・維新期の北東北のなかの弘前藩を事例に、芸能に関わる諸集団の移動の実態を明らかにし、民衆が娯楽を享受しようとする要求と、それらの諸集団を「差異」化しようとする意識の相克のありようを、流入する芸能者へのまなざしを通じて検討する。続いて加藤報告では、日本社会における在日朝鮮人への「民族差別」を告発した一九七〇年代の「日立闘争」を取り上げ、「日本人」と「在日朝鮮人」との「共闘」、その中での「主体」の問い直し、さらには闘争の舞台となった川崎という地域内部での行政闘争などによる地域社会の構造変容といった問題を、限界性をも含めて明らかにする。さらに南塚信吾氏には、東欧近現代史・国際関係史の立場から、1989年以降東欧で吹き荒ぶ「グローバリゼーション」への指摘を含めたコメントをお願いした。
政権交代が現実のものとなり、新自由主義の綻びの是正が期待されながらもなお今後の展望は見出し難い。このような状況のもと、両報告は具体的な地域を足場にこれらの問題に切り込む。活発な議論が交わされることを願いたい。
■ホームへ移動 | ▲ページの最初に移動幕末における芸能諸集団と「差異」化の論理―弘前藩領における娯楽享受と他者認識―
浪川 健治
近世後期から幕末・維新期へといたる社会への移行過程においては、広域化した民衆移動が展開した。松前・蝦夷地と北陸から東北にいたる日本海岸の地域に主に展開した「松前?」は、まさにそうした労働力移動の典型である。たんに当該する二地域という両極の間の移動ではなく、一藩内部では内陸から海岸部あるいは町場への移動を基底とし、また松前・蝦夷地へと流出した労働力が他藩からの労働力移動によって補完されていた。きわめて多極化し重層化した本質をもった労働力の移動である。
それは、松前・蝦夷地における場所請負制やそれに規定された漁業労働の主要素としてだけではなく、複合的で、かつとくに箱館開港後には地域社会を特徴づけるものである。それゆえ、その労働力移動は社会的な実態のみならず、幕藩制の解体と近代移行期にあってこれを生み出した社会関係とその変容を、権力との関わりから把握し総体として理解することが必要である。こうした近世後期から近代移行期に顕著となる大規模な労働力の移動は、一定度の「自由」な流動とも言うべき状況として広く展開する。このような地域社会にあっては、民族・女性・貧民・病者・民衆・地方・反社会集団などをも含む、社会を形成する多数派から「差異」化されたマイノリティとしての諸次元も、流動化への対応を迫られ、そのことにより新たな「差異」化が図られることとなる。
本報告では、こうした社会集団の動向を弘前藩における幕末期の芸能に関わる諸集団を中心として明らかにするとともに、そうした動向が流動化し変容する地域社会のなかでどのように認識されたのか、換言すれば新たな「差異」化とその論理の解明を試みたい。幕末期における芸能集団として検討するのは、弘前茂森町に本拠を置いた「御国太夫」廣居藤八を頭とする歌舞伎一座のほか、「軽業」を興行した同藩の被差別組織である「乞食」集団である。さらに村方が興行主となる角力興行「辻角力」にも着目して、彼等が主体となった諸芸能の興行の幕末期のありかたを特徴づける。それとともに、民衆が娯楽としてそれを享受しようとする要求と、そうした集団あるいは他領から流入する芸能者と自らとの相対化、すなわち「差異」化しようとする意識との間の相克のありようを、とくに流入する芸能者へのまなざしの検討を通じて考察する。これらの集団は、本来的に個別の藩政のなかに孤立的に編成された存在ではなく、今日の地理概念としての北東北を活動の場としてもった集団である。そして、そこに編成された人々の広域的な移動とそのことによる生産・生活の場の広がりを基盤としている。そうした存在がより一層流動化し変容する幕末期の地域のなかで、どのように新たな「差異」化にさらされたか、その歴史像を考えたい。
■ホームへ移動 | ▲ページの最初に移動一九七〇年代日本の「民族差別」をめぐる運動―「日立闘争」を中心に―
加藤 千香子
「新自由主義の時代」を特徴付ける事柄として、グローバル化やボーダーレスという言葉に示されるような越境、競争の激化による人と人とのつながりの分断、既存の公共性・共同性の解体が指摘される。ここで特に問題としたいのは、こうした背景の下で、他者との「差異」化をはかることで、マジョリティとしての自己の「安心」をとり戻そうとする傾向が、強まりをみせていることである。「勝ち組」への生き残りをかけて競い合うマジョリティにとって、マイノリティや「負け組」となる他者は、連帯どころか嫌悪し否定すべき対象にほかならない。今日、グローバル化に呼応する「多文化共生」の掛け声とは裏腹に、課題とされる「共生」を実現する「新しい公共」の構築にはほど遠い状況がある。
このような現状を念頭において、本報告では、日本社会における在日朝鮮人への「民族差別」を告発した一九七〇年代初めの社会運動――「日立闘争」――を取り上げる。「日立闘争」とは、一九七〇年、在日朝鮮人二世・朴鐘碩が、韓国籍を理由に就職取り消しを行った日立製作所を相手に起こした裁判をめぐり、七四年に裁判が朴側の全面勝訴として終結するまで、多くの在日朝鮮人・日本人の支援者を生み出しながら展開された運動である。
日立という大企業への就職を望んだ朴が求めたものは、日本社会で生きるマイノリティが「豊かさ」を享受し得る権利であった。高度成長期のピークを迎えた七〇年代初期は、日本型企業社会の形成とあいまって「豊かさ」が達成された時代とされる。だが、実際には、日本国籍を持たないため社会では「見えない」存在とされ、「豊かさ」から排除された人びとが存在した。この運動は、マイノリティを視野から外して成長に邁進する日本社会に対する異議申し立てであるとともに、マイノリティとしての市民権要求運動としてとらえられる。こうした朴の訴えの意味とその時代的背景を確認したうえで、さらに追究したいのは以下のような点である。
まず、運動の主体についてである。日立闘争は、在日朝鮮人二世である朴の訴えを発端としているが、運動の広がり全体をみるならば、決してそれは「在日朝鮮人」運動史という枠組みに収まるものではない。運動母体となった「朴君を囲む会」は、日本人学生と在日朝鮮人二世の若者たちによってつくられたものであり、「日立闘争」の特徴は、マジョリティ「日本人」とマイノリティ「在日朝鮮人」との「共闘」にあったといってよい。その「共闘」の中で、「日本人」「在日朝鮮人」という「主体」がそれぞれいかに問い直され、また相互の関係性がどのように模索されていったのか、検証していきたい。
次に、そうした新たな関係性構築の試みが、地域社会に場を移し展開されたことに注目する。運動の過程で、当事者である朴や「朴君を囲む会」の若者たちは、当時スラムとみなされていた川崎市南部の桜本地区に移り住み、同地区を「民族差別と闘う砦」と位置づけ地域を足場とした活動をはじめる。その動きは裁判終結後にも及び、行政に対する要求闘争などが進められ、実際に七〇年代革新市政下で、児童手当や市営住宅入居等の国籍条項撤廃という成果をあげることになる。在日朝鮮人というマイノリティを排除してきた地域社会の構造は、そこでどのような変容を遂げたのか、限界性を含めて考えたい。
「日立闘争」は、戦後日本社会においてマイノリティの市民権の問題を登場させ、「共生」という課題を投げかけたという意味で、戦後史上の画期であったといえる。「新自由主義」が跋扈する中で「共生」のかけ声が空虚に響く今日、当時の運動を振り返り、そこで達成されたこと未達成のまま終ったことを再確認しておく意味があると考える。
(参考:崔勝久・加藤千香子編、朴鐘碩・上野千鶴子著『日本における多文化共生とは何か――在日の経験から――』新曜社、二〇〇八年)
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